鹿児島県では、「仙巌園」という所にも立ち寄りました。
案内してくれた地元の方に、最初に、この名前を聞いていも、ピンとこなかったのですが、ここの旧名が、「磯庭園」だったことを知って、
「ああ、あそこか…」
と思いました。
中学3年生の頃、沖縄から、修学旅行で九州に行き、最後に立ち寄った所でした。
15歳の時だったから、本当に久しぶりでした。
もう名前も、変わっていたのですね。
最初に、この庭園から、こうやって、桜島を見たのが、15歳の時でした。
そういえば、何かの歌で、15歳の自分に、手紙を書くような内容の歌詞がありましたね。
庭の中は、それほど、変わっていないような印象を受けました。
皆で、団子を食べました。
美味しかったですね~!
この日は、「鹿児島神社」という小さな神社に行きました。
拝殿の前で、記念撮影しました。
拝殿には、ここの神様の名前が、書かれていました。
「宇治瀬大明神」
こう書かれていますね。
「宇」は「宇宙」で、「瀬」は「場所」、「大」は「☆(星)」の意味ですね。
「宇宙からやってきた星の神様が、治めていた場所」
という意味です。
境内にも、この神様を祀ってある場所がありました。
拝殿の近くには、ここの神様のお面が、三柱ありました。
ハイ!
「天狗」=「アヌ王」
「二人の鬼」=「エンリル&エンキ」
ですね。
すぐに、わかりましたね。
神社の隣には、大きな御神木もありました。
御神木から、エネルギーをいただきました。
この神社は、元々は、桜島にあったそうですね。
その時の石柱に、旧字体の名前が彫られていました。
う~ん、意味深ですね。
ちなみに、総復習を兼ねて、「アヌンナキの一族」と「神社」の関係を、最後に簡単にまとめておきます。
日本のほとんどの神社には、6人の存在が祀られています。
〇宇宙の創造主である、「神」
〇「人間」
〇地球の王である、「アヌ王」
〇アヌ王の後継者だった二人の息子たち、「エンリル」と「エンキ」
〇その二人の息子たちの共通の孫である、「イナンナ(ニンフルサグの双子の魂)」
それぞれが、下記のように表現されているようです。
「鏡」=「神(かみ)」+「我(ひと)」
「鏡の台」=「アヌ王」
「狛犬」=「エンリル(阿)」+「エンキ(吽)」
「お稲荷さん」=「イナンナ&ニンフルサグ」
神社を参拝する時は、これを意識して、境内を眺めてみると、面白くなると思います。
さて、いよいよ、この旅行記では、最後の話になります。
宮崎県宮崎市にある、「平和の塔」にも、立ち寄りました。
遠くに見えてきました。
近づきました。
間近で見ると、凄い迫力です。
ここは、戦前、1940年に、紀元2600年を記念して、宮崎市に建設された「八紘之基柱」という塔です。
現在は、「平和の塔」という名前で、平和台公園内にあります。
公園の航空写真です。
沖縄の「平和記念公園」の塔にも、似ていますね。
塔の正面には、「八角形」の石板が置かれています。
そして、ここで、柏手を打つように書かれています。
もうわかりましたね。
「イナンナ」という存在を、祀っている聖地です。
記念撮影しました。
塔の正面には、六角形の「柱状節理」の形がありました。
おそらく、「世界樹」のシンボルなのだと思います。
そして、塔の正面には、「八紘一宇」の文字が、デーンの刻まれています。
周囲には、4人の人物が、この塔を守護するように、置かれていますが、明らかに、日本人の外観ではありません。
パンフレットのようなものでは、いろいろな解釈が書かれていましたが、私には、大陸から来た、「渡来人」や「帰化人」、もしくは、「宇宙人」に見えました。
「巨体」と「ギョロリとした大きな目」ですね。
しかも、「ペット」を連れています。
「アヌ王」かもしれません。
これは、「大人と子供」ですね。
「イナンナ」と「キリスト」なんじゃないかな?
こうやって、いろいろ想像すると、楽しいです。
いろいろな彫り物もありました。
「東京オリンピック」でも、使われたそうですね。
ここからが、本題です。
「八紘一宇」
これは、どういう意味でしょうか?
「日本書記」には、神武天皇が即位した時に、神武天皇の即位式に集まった、もろもろの氏族や土着の部族に対して、述べた言葉があるのです。
それが、
「八紘を おほひて宇と為むこと、また可からずや」
この言葉みたいです。
口語訳は、
「天地四方に住むすべての者が、ひとつの屋根の下の大家族のように、仲良く暮らすなら、それはなんと、楽しくうれしいことだろうか」
という意味になるそうです。
神武天皇の即位式です。
「八紘一宇」の「八」は、「八百万」の「や」であり、無限の広がりを意味し、数多いこと意味するそうです。
「紘」は、「冠のひも」という字であり、
「八方の隅から、紐をまとめて、一箇所に結ぶようにまとめる」
という意味があるようです。
もっと簡単に言うと、
「人類の魂の緒を、八方から一つに結び合わせて、お互いの個性を尊重しながら、一つの家族のように、仲良く結び合う」
こういう意味なのです。
古代において、日本民族は、
「魂は、霊的根本において,つながっている「緒」をなし連なっている」
と考えてい たそうです。
したがって、肉体は別々に見えていても、魂は一つに繋がっていると捉えていたようです。
世界民族は、それぞれに、文化や言葉は違って、肉体も離ればなれになっていますが、魂において、それぞれの文化や生活習慣を、認めつつ、お互いに尊敬しあって、皆で、
「一家族の兄弟のように、仲良くしましょう」
と言うのが、「日本の建国の理念」なのだそうです。
素晴らしいですね~!
この単語には、なんとなく、ネガティブなイメージをもっていたのですが、ちゃんと調べると、とてもいい表現だったことが、わかりました。
そして…
ここからが、核心の話です。
実は、歴史の表舞台には、あまり登場しませんが、歴史の裏側で、大活躍した日本人が、存在していたのです。
「八紘一宇」の精神で、世界平和に貢献した、日本人女性がいたのです。
かつて、ヨーロッパといえば、古代から近代に至るまで、戦乱にあけくれた地でした。
ヨーロッパは、多くの国が、集中して存在している地域です。
しかし、国境線をはさんで、紛争や戦争が絶えず、第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、この地で勃発しました。
しかし戦後、状況は一変しました。
そこは、ヨーロッパ史上、 かつてない平和と繁栄の地となったのです。
それは、国々の間に、強い連帯が生まれたからです。
今日、ヨーロッパには、「EU=ヨーロッパ連合)」というものがつくられています。
これは、経済の結びつきをはかった、かつての「EC(ヨーロッパ経済共同体)」を、さらに発展させたものだそうです。
今日では、共通の通貨、「ユーロ」も発行され、人々は、国境を越えて自由に行き来し、また経済活動、人々との交流が、できるようになっています。
そのおかげで、ヨーロッパは、かつてなく発展し、繁栄するようになりました。
「EU=ヨーロッパ連合」は、民族も言語も違う国々が、連合体をつくり、共栄を目指した ものです。
このような国家の連帯、統合は、ヨーロッパ史上また人類史上、画期的なものだと思います。
なぜなら、これは、一つの国が周囲の国々を、力で支配するという結びつきではないのです。
そのようなものは、今までにも、たくさんありました。
しかし、それは、垂直的な結びつきでした。
「EU」は、そうではなく、国と国の水平的な結びつきなのです。
一つの国が、他国を、力で支配するのではなく、国と国が、対等の立場で横のつながりで結ばれたのです。
この「EU」の産みの親と言われているのが、オーストリアの「リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵」 です。
そして、なんと、彼のお母さんは、日本人だったのです。
私は、この人物を、最近知りました。
「青山光子」という名前です。
彼女の強い影響を受けて、息子、「カレルギー伯爵」は、「EU」の構想を思いついたそうです。
それで、彼女は、「EUの母」と言われているのです。
光子は、明治七(1874)年に東京の牛込で生まれたそうです。
格別な家柄というわけでもなく、当時としては、ごく普通の庶民の娘です。
この女性が、どうやって、「EUの母」と呼ばれるまでに、なったのでしょうか?
光子が、18歳のとき 、ある冬の寒い日のこと。
道を行く彼女の目の前で、一人の外国人青年が、落馬したそうです。
彼女は驚いて、
「まあ大変! だれか来て下さい」
と助けを呼びました。
彼女自身、とっさに駆け寄り、医者を呼びました。
そして医者が来るまで、応急手当をしました。
当時は、外国人のそばに寄るだけでも、かなりの勇気がいった時代です。
しかし、
「苦しんでいる人を、ほおってはおけない」
と、彼を助けたのでした。
落馬したのが、「ハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵」という人でした。
のちに、「EU」 の構想を発表する、「リヒャルト」の父です。
ハインリヒは、オーストリアの駐日代理公使として、日本に赴任したばかりでした。
一方のは、生粋の日本人。
青年公使は、光子をみて、一目で恋に落ちたと、伝えられているそうです。
二人は、やがて結婚しました。
国際結婚の第一号だったそうです。
光子は、「クーデンホーフ光子」という名前になりました。
その後、二人の間に、長男の「ミツタロウ」、次男の「エイジロウ」が、誕生してまもなく、夫の日本での赴任が終わり、ヨーロッパへの帰国が決まりました。
この次男である、「エイジロ ウ」が、のちの、「リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯」、つまり、「EU」の構想を生み出した人です。
彼は日本で生まれ、「リヒャルト」は、彼の洗礼名だそうです。
「エイジロウ」と皇太子時代の現在の天皇陛下です。
右側が、次男の「エイジロウ」です。
彼が、後に、「EU」をつくったそうです。
光子にとって、ヨーロッパは地の果てで、そこは、全く違う民族が住み、日本語も通じません。
そこへ行けば、二度と両親に会えないかもしれません。
しかし、光子に迷いはありませんでした。
彼女はこの道を行くと決意していたのです。
そして、明治二九(1896)年、夫とともにヨーロッパに渡り 、ボヘミアの古城に、「伯爵夫人」として迎えられました。
ヨーロッパ有数の名門貴族、「クーデンホーフ家」に、嫁いだのです。
光子の苦労も並大抵ではありませんでした。
その夫もある日、心臓マヒで、急死してしまいます。
47歳の若さでした。
31歳の光子は、たった一人になり、いろいろな苦しみの中で、夫のあとを追おうと、刃物を手にとったそうですが、絶望の中である言葉が、よみがえってきたそうです。
「そうだ、私が負けるなら、それは、日本が、負けたことになる!」
と光子は、思い直したそうです。
こうして彼女は再び、生き抜いていく決意を固めたのです 。
光子は、夫の遺言に従い、クーデンホーフ家の全財産を相続し、クーデンホーフ家の家長となりました。
光子は一人で、七人の子どもを、育てなければなりませんでした。
彼女は子ども達を、「立派なヨーロッパ人」に育てるため、厳格に教育しました。
それは子どもたちから、恐れられるくらいだったといいます。
しかし後年、立派に育った子どもたちは、みな母に深い尊敬を寄せたそうです。
若い頃の写真です。
肩パットが入っていて、「いかり肩」に見えますね。
傘に注目してください。
「八角形」の傘 をさしています。
どうですか?
そろそろ、私の言いたいことに、気が付いたと思います。
青山光子の特徴です。
「帽子を被った写真が、たくさん撮られている」
「いかり肩の体型に見えるファッションの写真がある」
「自分が動くのではなく、息子を産んで、彼に自分の理想を実現してもらった」
「その活動の目的は、地球に愛を広げることだった」
「さらに、名前も、そのままズバリ、「光の子だった」
ハイ!
「イナンナ」ですね。
彼女は、「イナンナ」の生まれ変わり、もしくは、彼女の魂のグループだと思い ます。
「聖母マリア」でもあり、日本では、「お稲荷さん」でもありますね。
ただし、本人は、そういうことは、まったく、意識はしてなかったかもしれませんね。
太古の昔から、地球をサポートしてきた、「アヌンナキ」の一族。
その中でも、「イナンナ」は、今でも、愛の女神として、地球を蔭ながら、目立たないように、必要最小限の力で、しかし、大きな動きを生むような形で、愛の援助を続けていると思います。
ふーっ!
どうしでしたか?
「九州ワクワクツアー」は、今回で最終回です。
楽しんでいただけたら、嬉しいです。
さて、次は、 どこに行こうかな…?
では、恒例の締めの一言です。
「聖マリアの汚れなき御心よ、今も臨終の時も我等の為に祈り給え」
by 「緑のスカプラリオ」に書かれている言葉
※ これは、私が高校生の頃、心を病んでいた時に、毎日唱えていたら、病状が劇的に回復した、思い出の言葉です。
現在、心が苦しい方は、この言葉で癒されて、楽になるかもしれませんね。
※ ウィキペディアからの情報です。
1840年に、ある修道女が聖母マリアの像の前で祈っていると、聖母の出現があり、その後、数度の聖母の出現があったのち、聖母マリアの像の左手に、「緑のスカプラリオ」が持たれていた。
緑のスカプラリオの表には、聖母マリアの絵が、裏側には、剣で刺し貫かれた心臓があり、その周りに、
「聖マリアの汚れなき御心よ、今も臨終の時も我等の為に祈り給え」
という文字が書いてあったそうです。