今日の昼間、友人とランチを食べました。
その時に、
「そういえば、判断と決断って、どう違うのかな?」
ということが、話題になりました。
私は、好奇心が旺盛で、常に、いろいろなことを学んだり、考えたりしているのですが、こういうちょっとしたことでも、気になったら、すぐに調べたり、周りの人に、質問したりします。
こういう知的好奇心が、異常に強いから、ブログやメルマガなども、たくさん書けるのだと思っています。
最近は、わからないことがあっても、すぐに、その場で、スマホなどで調べられるので、とても便利な時代になりましたね。
調べてみると、いろいろ面白いことが、わかりました。
ハッキリ定義されているわけではありませんが、だいたいのニュアンスは、下記のようです。
「判断」というのは、辞書によると、
「ある物事について、自分の考えをこうだときめること」
と書いてありました。
もしくは、
「過去から現在に起こった事柄について、きめること」
という説明をする人もいます。
ある本には、
「選ぶものの中に、正解と不正解が存在していて、その中から、正解を選ぶこと」
と書いてありました。
簡単に言うと、
「正しいか? 間違っているか?」
ということです。
これは、わかりやすいですね。
「判断」というのは、ある種の「頭の整理」だということです。
そして、この作業は、特に、学校においては、義務教育の頃に、鍛えられます。
正解と不正解の二つが、存在しているということは、
「選んだ後に、間違っていた場合、後悔することもある」
ということです。
漢字を見てみると、
「判」は、「半」と「二」ですね。
これは、
「二つの中から、もう半分である一つを選ぶ」
という意味です。
さらに、「断」は、「米」と「口」と「斤」ですね。
これは、
「米の入っている箱を、斤(まさかり)で壊して、取り出す」
という意味になります。
「決断」というのは、辞書によると、
「きっぱりと、きめること」
だそうです。
これは、ちょっと抽象的すぎて、わかりにくいです。
他には、
「未来に起こり得る事象に対して、きめること」
という説明もありました。
ある本には、
「正解と不正解の中から、正解を選んだ後に、その後、その中から、さらに、自分の好きなものを選ぶこと」
と書いてありました。
シンプルにまとめると、最終的に、
「好きか? 嫌いか?」
で決めるということです。
「決断」というのは、「意思決定」であり、さらに、その後に、「行動」がともなわなくてはいけないということです。
これは、教育の分野だと、大学くらいから、この姿勢が求められますね。
大学に行かなくても、社会人になったら、こちらのほうを、重視される機会が、多くなってきます。
「決断」と言う行為が、「判断」と大きく違うところは、
「決めた後は、その後、たとえ、間違っていたことがわかっても、後悔しない」
という姿勢が、大切だということです。
漢字を見てみると、
「決」は、「三水(さんずい)」と「央」ですね。
これは、もともとは、
「大きな川に、堤防があって、それが、大雨などの増水で、中央に穴があき、そこから、川の水が、流れ出していく」
という意味の漢字だそうです。
厚い壁を、正面から、打ち破るということです。
「断」は、上記の同様の意味です。
これも、思い切って、「エイヤッ!」と、壊す行為ですね。
このように、生きていく上では、様々な場面で、最初に、いろいろな「判断」が、求められます。
まずは、「判断」しなくてはいけないのです。
「道徳的に、正しいのか? 間違っているのか?」
「常識的に、正しいのか? 間違っているのか?」
「法的に、正しいのか? 間違っているのか?」
どんなことも、これなしには、始まらないのです。
しかし、これだけでは、まだ、「子供」の段階です。
学生時代や新入社員の頃は、これだけを、やっていればいいのですが、こういう指示待ちをしているだけの状態では、社会人としては、使いものになりません。
次の段階では、いろいろな「決断」が、求められます。
会社の中で、課長や部長など、ある程度の役職につくようになったら、ある程度、自分の自由で、物事を、決めらえる立場になります。
この時には、道徳や常識、そして、法律上問題がなければ、ある程度は、「好き嫌い」で、決めてもいいのです。
このあたりが、できるようになると、「大人」です。
大切なのは、ただ単に「好き嫌い」で、決めてはダメだということです。
あくまでも、世の中に、迷惑をかけない範囲ないだったら、「OK」ということです。
同時に、その「好き嫌い」で選んだことには、その後の「行動」や「責任」も求められます。
つまり、「行動」や「責任」を、伴った上での「好き嫌い」だったら、問題ないということです。
会社などの仕事は、自分の「好き嫌い」で、動かせるようになったら、面白くなってきます。
それまでは、自分の好きなことは、させてもらえないものなのです。
「判断」や「決断」のさらに上には、「英断」というものがあります。
「子供」や「大人」の段階では、これをやらなくてはいけない場面や機会は、あまりないと思います。
「英断」とは、辞書をひくと、
「きっぱりと事を決めること。また、すぐれた決断」
と書いてありました。
この行為は、
「正しいか? 間違っているか? そして、好きか? 嫌いか?」
ではなく、
「最終的は、それは、世の中のために、いいことなのか? 悪いことなのか?」
ということを基準に、決断するということです。
個人の「正誤」や「損得」、「好き嫌い」ではなく、「後世の歴史まで、視野に入れた決断」をするということです。
これは、
「仮に、それをやることによって、大きな損害を出したり、皆から、嫌われたり、悪者になっても、それでもやる!」
という決意です。
こういうことが、求められるのは、会社の中では、社長だったり、社会の中では、政治家などの指導者的な立場の人が、この決断を、求められることがあります。
「英断」と言う行為が、「決断」と大きく違うところは、
「自分の生きている間は、理解されないかもしれない」
と覚悟することです。
つまり、
「その時には、理解してもらえなかったり、誤解されることもあるかもしれないが、50年後や100年後の未来には、きっと理解してもらえるだろう!」
と思わなくてはいけないということです。
この中の「英」という漢字は、
「すぐれている。すぐれた人」
という意味もあるようです。
「英才」や「英雄」という単語がありますね。
「英断を下す」で、「下す」という表現が、多く使われることからも、わかりますが、これは、
「上の者が下の者に、命令を下す」
という行為のことです。
簡単に言うと、
「上から下に行く」
という指示や行為なのです。
「英」という漢字は、他にも、
「花。花房」
という意味もあるようです。
「石英(クオーツ)」という単語が、表しているように、花開いている状態ですね。
これは、
「英断を下すことができたら、その人の人生は花開く。そして、その行為は、永遠に語り継がれる」
ということかもしれません。
もしかしたら、人間というのは、指導的な立場になって、「英断」を下せるようになったら、成熟した魂、つまり、「本当の大人」になれるのかもしれません。
いつの日か、自分が、指導者的な立場になり、判断でも決断でもなく、「英断」を下さなくてはいけない場面に遭遇した時に、ニッコリ笑いながら、この行為ができるようになりたいと思っています。
PS 歴史に名を残している偉人たちは、いろいろな場面で、「英断」を下すことができた人たちだと思います。
だから、名前が後世まで、語り継がれているのです。
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