私たちは、四天王寺の境内を、おしゃべりしながら、楽しく散歩しました。
鳥居から、「西大門(極楽門)」を抜けました。
五重塔もありました。
この中は、入ってから、階段で最上階まで登れます。
入口です。
蝶の模様です。
「アヌンナキ」の一族のシンボルですね。
「金堂」や「講堂」の内部にも入室して、いろいろな仏像や壁絵も、見学しました。
建物内部は、撮影禁止なので、写真などはありませんが、とても興味深い展示品ばかりでした。
「金堂」と「五重塔」の向こうに、「あべのハルカス」が見えました。
この建物の形、どこかで見たと思っていたら、途中で気が付きました。
弥生時代の「銅鐸」です。
これに似ています。
もしかしたら、この建物は、「銅鐸」をイメージしたのかもしれませんね。
「亀の池」では、たくさんの亀さんが、日向ぼっこしていました。
「六時堂」と「石舞台」です。
「太子堂猫の門」と書かれています。
何か意味があるのかな?
柱に、猫がいました。
その近くに、本物の猫ちゃんもいました。(笑)
境内を散歩していて、気が付いたことがありました。
現在もそうですが、聖徳太子の時代も、「四天王寺」は、ずーっと町中にあります。
こういう土地に建てられたということ自体に、意味があるのです。
それは、この寺が、山の中という「聖なる土地」で静かに修行する、「出家」のスタイルではないということです。
町中、つまり、俗世間の中で、世俗にまみれながら、主に、「人間関係」を通じて学ぶという、「在家」のスタイルを、選択したことを表しています。
いろいろな文献を調べると、聖徳太子は、
「日本のような狭い国土には、大陸であるインドで行われていた、出家のスタイルではなく、世俗にまみれる在家のスタイルの仏教の学び方が、向いている」
と判断していたようなのです。
自分の欲望や欲求を満たし、幸福を感じるには、大きく分けて、「植物型」と「動物型」のやり方があると思います。
「植物型」というのは、自分の欲望そのものを、なるべく抑えたり、低く設定することにより、幸福感を感じることです。
これは、仏教などでいう、
「足るを知る」
という精神でもあると思います。
要するに、贅沢をせず、なるべく質素な生活をす、というやり方です。
「動物型」は、逆に、欲望そのものが増大しても、それを満たすために努力して、幸福感を感じるというものです。
欧米のビジネスマンなどに、このタイプが多いです。
なるべく、たくさんのお金を稼ぎ、社会的名声なども求めるというものです。
これの中間のやり方もあると思いますが、まずは、この「植物型」について考えてみましょう。
これを、究極までつきつめれば、聖書でいう、
「何を得、何を食べようと、思い煩うことなく、野に咲く百合の花のように、天から与えられたものだけで、満足して暮らそう」
という生活態度になるのですが、実際には、なかなかこの境地に達することができる人は少ないです。
もし、できれば立派だと思います。
これは、私の個人的な見解なのですが、お釈迦様が、出家した後は、この「植物型」の生活だったと思います。
しかし、お釈迦様の出家については、たくさんの説がありますが、お釈迦様は、出家する前は、「シャカ族の王子様」だったということです。
かなり贅沢な生活をしていただろうと推察します。
こういう贅沢を、とことん経験した後だったから、「出家」は、できたのかもしれません。
別の例を上げると、「ソニー」という企業の盛田会長なども、晩年、とても質素な「植物型」の生活をしていたようですが、やはりこれも、その前に、大変な贅沢な生活を経験したからこそ、できたのではないかという気がします。
つまり、「植物型」は、あまり一般的なやり方ではないということです。
特に、結婚して、子供が生まれると、子供は、「欲望の塊」なので、
「ママ、お腹がすいたー!」
などと、四六時中主張してくるので、それを無視して、「小欲知足」などとは、言ってはいられないと思います。
ただ、子育てが終わり、静かな老境に入った人たちは、こういう人生態度も考えた方がいいかもしれません。
「内なる心の幸福」を大事にするという態度です。
ただし、基本的に、人間は、「動物」なのです。
だから、やはり「動物型」の方が、自然なのではないかという気がします。
特に、若者にはこのやり方が、合っていると思います。
自分で、自分の人生を切り開き、環境を良くし、成功を夢見て努力するという生き方です。
私自身は、現在、51歳なのですが、
「いつかは、植物型に移行したいな…。」
という気持ちもあります。
でも、やはりこれは、
「自分が、いままでに、けっこう贅沢な生活をやった経験があるから、そういう考えになるのではないか?」
という気もします。
「人生は、お金ではない!」
という真実を知るためには、やはり、ある程度のお金が、必要なのかもしれません。(笑)
去年、友人に誘われて、滋賀県の「ミホ・ミュージアム」という美術館に行きました。
「トーマさん、一度、ミホ・ミュージアムを見学してみてください。この世の桃源郷ですよ」
こう言われたので、行ってみたのです。
最高でした。
特に、「メソポタミア文明」などの展示品が、素晴らしかったです。
「桃源郷」というのは、もともとは、中国の伝説みたいです。
ある漁師が、桃の咲き乱れる林の奥に、迷い込んで見つけた、「仙境=ユートピア」のことだそうです。
そこは、当時の秦の戦乱を避けた人々の集落だったそうです。
たいへんなもてなしを、受けたのですが、それが忘れられず、帰宅後、再び捜してみたけど、そこへは、再び行き着く事は、できなかったそうです。
最近では、この場所は、地下王国である、「アガルタ」や「シャンバラ」という所だったのじゃないかという説も、有力みたいですね。
とにかく、日本でも、「古事記」だったり、「浦島太郎」や「かぐや姫」など、異界に行って、人間以外の異人に会う話は、昔から、たくさんあります。
特に、中国では、そういう所は、「不老不死の世界」であり、「この世の天国」というイメージがあったようですね。
奈良県の「藤原京」なども、もともとは、中国から来た渡来人たちが、
「ここの場所に、桃源郷の街を造ろう!」
こう思って、都市計画を造り、街づくりをしたという説もあります。
「藤原京(フジワラキョウ)」を、音読みすれば、「桃源郷(トウゲンキョウ)」ですね。
この美術館では、ランチも食べたのですが、とても美味しかったです。
なんでも、この美術館の近くの畑で採れた、有機栽培による野菜を使っているそうです。
この美術館は、どこかの宗教法人が運営しているそうですが、こういう活動は、素晴らしいと思います。
職員の方たちは、おそらく信者の方だと思うのですが、高級ホテルの従業員なんかより、はるかに、愛情のこもった、素晴らしいサービスを心がけているのが、よくわかりました。
レストランの近くの中庭です。
こういう地域の人たちから、愛されている団体と、反社会的な活動をしていまう、カルトのような団体では、何が違うのでしょうか?
私は、それは、
「オープンなのか? クルーズなのか?」
の違いだと思います。
一般の社会にも、開いている活動をしているのか、それとも、閉ざされた活動をしているのかということです。
何年か前に、映画監督であった、大島渚監督が亡くなられましたね。
いい意味での頑固さをもった、素晴らしい方でした。
昭和の時代には、「巨人の星」の星一徹のように、激怒してテーブルを、ひっくり返すような頑固オヤジが、いっぱいいました。
大島監督も、そういう昭和の時代の頑固オヤジでした。
現在は、若者が、自信を失っています。
どう生きていったらいいのか、まったくわからなくなっています。
それは、若者に、それを教えるはずの親や教師も、どう生きていったらいいのか、わらなくなっているからです。
「これは、良いことだ! これは、悪いことだ!」
こう断言できる大人が、少なくなっているのです。
今こそ、大島監督のような頑固オヤジが、現代の日本には、必要なのかもしれません。
大島監督に関しては、忘れられない思い出があります。
1991年くらいだったと思いますが、「朝まで生テレビ」に、「オウム真理教」の信者の人たちが出演して、「宗教」について、激論した時です。
この時の「朝生」は、今まで見た中で、一番面白かったです。
その時に、大島監督が、オウム信者の人たちに話したことが、今でも忘れられません。
だいぶ昔のことなので、記憶があいまいですが、だいだいこういう話だっと思います。
「あなたがたオウムの信者たちは、素晴らしい教えを説いているし、厳しい修行も積まれている。悟りや覚醒、そして、真理を求める気持ちも、私は、とても高く評価しています」
最初に、オウムの教義や団体の活動を肯定して、褒めた後に、
「しかし…」
と、前置きしてから、
「あなたたちが、明らかに悪いと思うのは、一般常識や道徳を無視しているところです。インドなどと違い、日本は、小さい島国です。だから、基本的に出家などのシステムには、向いていません。どんな田舎で、出家生活をしようと思っても、必ず、そこの地域住民と関わることになります」
こう話始めました。
話の途中で、オウム信者の一人が、その話を遮って、反論をしようとしたら、
「バカヤロウ!! そうやって、普通の会話のキャッチボールが、できないところが、そもそも問題なんだ!」
と、一喝しました。
続けて、
「あなたたち、出家するのは、いいことですよ。でもね、あなたたちは、出家する時、人さまの土地に、なんの挨拶もなく、いきなり、土足で入るようなことを、やっていますね? 土地を買い、建物を建てて、周囲の地域住民を無視して、自分たちだけで閉じこもる。こういう行為が、不信感を生むし、普通の社会から、嫌われる原因になるんですよ」
こう言いました。
それから、急にやさしい口調になり、笑顔で信者たちに語り始めました。
「今度から、田舎の土地で、出家生活をしようと思ったら、まずは、その村の村役場の人たちに、菓子折りを持って行きなさい。そして、怪しい者ではないということをアピールしなさい。できれば、役場の人たちと食事会でも開きなさい」
この話には、オウム信者も含めて、その場にいた人、全員が、シーンとなりました。
その時、すでに、いろいろな事件を、起こしていたオウムでしたが、大島監督は、
「あなたたちが、何か行動を起こす時に、菓子折りを1個、関わる人たちに贈っていたら、一連のトラブルや事件は、かなり避けられたかもしれませんよ」
こう言っていました。
大島監督の言うように、菓子折りで、事件が避けられたかどうかは、私にはわかりません。
でも、少しは緩和されたかもしれません。
本当の「出家」というものは、たしかに、人間社会の「常識」や「道徳」は、ある程度は無視して、もっと大きな宇宙の価値観に、合わせるというやり方をとります。
ただ、大島監督の言うように、日本という狭い島国では、基本的に、それは難しいのです。
「誰も来ないような理想郷」
という土地は、現在の日本には、あまり残っていないのです。
だから、現在の日本で、宗教や精神世界を学ぶ人たちは、ある程度、「在家」のやり方しか、できなくなっています。
そういう場合、大島監督の言う、
「菓子折りを、持っていく」
という姿勢は、どこで学ぶにしても、大切になってくると思います。
「常識」や「道徳」を、忘れてしまい、「真理」の追究だけに、向かってしまうと、その先には、「犯罪」という、反社会的な活動という「落とし穴」が、待ち構えています。
でも、その「落とし穴」は、もしかしたら、「菓子折り」の1個で、避けられるかもしれないのです。
「桃源郷」になるのか、「カルト」になるのかは、日本の場合、その周辺の社会とも、うまく調和できるかに、かかっているのです。
利己主義で、我儘なだけの大人が集まった社会は、「カルト」になってしまうのです。
他者への愛情も備えた、成熟した大人が集まって、初めて、そこは、「理想郷(ユートピア)」、つまり、「桃源郷」になるのです。
滋賀県の「ミホ・ミュージアム」です。
私たちは、「四天王寺」の境内で、また面白いものを発見しました。
次回に続きます。
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