「イザナギ(伊弉諾尊)」と「イザナミ(伊弉冉尊)」が、私たち日本人の純粋な始祖だという話まで、やりましたね。
その二人ですが、最初の頃は、中近東にあった、「エデンの園」に住んでいた、もう一組の人祖である、「アダム」と「イブ」のように、周囲には、植物と動物以外には誰もいないという環境で、二人っきりの童児と童女として、寄り添いながら、生きていったそうです。
小鳥たちや小動物たちしか、遊び相手はいなかったのです。
密生した桧の樹が、音を出して、きしみながら発火した時に、それを見て、火の起こし方を学び、魚や肉も、生よりも、火で焼いたほうが、美味しく食べれれることを知ったそうです。
それから、火の傍にあった粘土が、形をつくっているのを見て、素焼きをつくることも、学んだそうです。
ある日のこと、小鳥やリスが、交尾をしているのを見て、童女の方が、顔を赤らめたそうです。
それから、童女は、童児に、
「これからは、寝屋を別にしましょう」
と言ったそうです。
お互いに、異性を意識するようになったということです。
童児も、それに同意して、それが、きっかけで、二人は別々の場所で暮らすことになったそうです。
童女のほうは、自分の発言を、後に、凄く後悔して、自分を責め続けたそうです。
しかし、永遠の別れというわけでもなく、二人の約束は、
「ある程度の年齢になったら、また再会しよう!」
というものだったそうです。
現在の福井県小浜市にある、遠敷川の「鵜瀬」で、二人は、一旦、涙の別れをしたそうです。
童女のほうは、その後、現在の滋賀県の琵琶湖にある、「竹生島」で、初潮を迎えたそうです。
後世、成人した女性を守る、「弁天様」は、ここから発生しているそうです。
そういえば、多くの祠は、池の中にあったり、赤い鳥居や赤い祠、赤い橋などですね。
あれは、童女(イザナミ)が、琵琶湖に囲まれた竹生島で、赤い血を流したことが、始まりだそうです。
しかも、「ニンフサグ」でもあり、母親は、「竜(蛇)」の姿の宇宙人でもあったから、「龍神様」も、同時に祀られたりしているのですね。
なるほど…、ですね。
それから、童女は、滋賀県犬上郡多賀町のあたりで、しばらく暮らしたそうです。
有名な「多賀大社」の近くだったそうです。
そこで、麻の皮が丈夫なことを知って、そこで、自分の身体を保護する麻衣を編み出し、それを身に纏ったそうです。
これが、人類の衣服の始まりだそうです。
西洋の「アダム」と「イブ」が、「イチジクの葉っぱ」で性器を隠した話よりも、より高度ですね。(笑)
去年の夏、この話を知ってから、さっそく、「多賀大社」に行ってきました。
「多賀大社」の「多」は、二つの勾玉であり、「イザナギ」と「イザナミ」を表現しているような気がします。
そこから、後に、多くの日本人が、生まれたわけですから。
鳥居の前のお店に、「しゃもじ」がありましたが、これも、「前方後円墳」の形であり、「アヌ王」のシンボルでもありますね。
よく見ると、拝殿の形は、「プロビデンスの目」で、「エンキ=イザナギ」のシンボルになっていますね。
これについては、後ほど詳しく説明します。
拝殿の中にも、「しゃもじ」がありました。
「イザナミ」は、その後は、三重県の員弁、それから、三重県の麻生田でも、3年間ほど生活していたそうです。
ここでは、ひたすら麻織物を織っていたそうです。
それから、「イザナギ」と再会を約束していた場所、現在の伊勢市宮後町にある、「伊勢神宮」の外宮の別宮、「月夜見宮」に行ったそうです。
そこで、二人は、お互いに成長した姿で、久しぶりの再会をしたそうです。
そして、ここで、結婚式を挙げたそうです。
これが、人類初の結婚式、つまり、「人祖の結婚式」になったそうです。
2017年の初夏に、ここにも行きました。
ここは、そういう所だったのですね。
そこでは、「イザナミ」が、麻生田で織った、「白妙」を二人とも纏って、誓いの言葉を、神に述べたそうです。
「絶対に争ったり、殺し合ったりせずに、助け合います」
というのが、その誓いの言葉だったそうです。
現在でも、天皇が結婚する時にやる、「大嘗神祇祭」という儀式では、これをやるそうです。
この誓いの言葉の理由は、最初の人祖である、この二人が、「人間の元」の状態で、地球に来る前に、その宇宙の根源のような世界、宇宙の子宮である、「障壁賀」の中が、とても調和がとれていて、争いごとの全くない、素晴らしい世界だったために、必然的に、その理想の世界を、この現実世界でも再現しようと思ったようです。
考えてみたら、現在の日本の「平和憲法」は、この時に、すでに出来上がっていたのですね。
「イザナギ」と「イザナミ」は、結婚したあと、滋賀県に向かったそうですが、その滋賀への旅の途中、現在の三重県いなべ市にある、「饗庭神社」で、人類初となる、最初の妊娠に気がついたそうです。
ここにも、去年の11月末に、行ってきました。
記念撮影しました。
なぜか、狛犬が4体も並んでる、不思議な参道でした。
貫禄のある拝殿と階段です。
それから、イザナミは、自分が子供の頃に住んでいた滋賀県犬上郡多賀町のあたりが、とても気に入っていたので、そこでの定住を決めたようです。
やはり、「多賀大社」のあたりです。
二人は老化もせず、若い身体のまま、数千年生きたそうです。
そして、その間に、子供を、たくさん産んだようなのです。
子供たちは、男女合わせて38人いたそうです。
男児が19人、女児が19人だったそうです。
38人の子供たちの話は、また後ほど、ゆっくり書きますね。
38人の子供たちが、ある程度育ち、それから、さらに、その38人も、たくさんの子供を産み、大勢の子孫に恵まれたそうです。
それで、ある程度、落ち着いた頃を見計らって、二人は、元来た天に戻ることにしたそうです。
その場所は、滋賀県米原市にある、「醒ヶ井」という所にある、「武奈山」と「比婆山」を、二人のお墓に決めたそうです。
この二つの山は、距離にして、3キロくらい離れているそうです。
最初に、「イザナギ」が、「武奈山」の頂上にある墓に入り、肉体は、そこに埋めたようです。
それから、本質である霊体は、
プシュー!
と、天高く飛びあがり、そのまま、「金星」に向かって、天に飛んでいったそうです。
しばらくして、今度は、「イザナミ」が、「比婆山」の頂上にある墓に入り、肉体は、そこに埋めたようです。
それから、また、霊体が、
プシュー!
と、「イザナギ」の後を追うように、同じく、「金星」の方角に飛んで行ったそうです。
この話を知ったので、去年の夏、さっそく、この二人の墓まで、行ってみることにしました。
それにしても、「人祖」である、「イザナギ」と「イザナミ」のお墓があったことすら、知りませんでした。
本当の古代史というのは、本当に、巧妙に隠されてきたのですね。
私の友人たちに訊いても、知っている人は、とても少なかったです。
さて、この滋賀県の旅では、2人の方が、同行してくれたのですが、3人で、そのお墓に向かいました。
しかし、途中から道が狭くなり、時間も夕方になっていたので、途中で行くのを諦めました。
この写真は、「比婆山」にある、「イザナミ」の墓を目指した時に、諦めて引き返した時の写真です。
私の服を、夕日がオレンジ色に染めているのが、わかりますね。
後から、詳しい人から、教えていただいたのですが、この先は、ヒルやマムシなども生息していて、とても危険だそうです。
また、四輪駆動の車じゃないと登れない坂道もあり、素人が行けるような所ではないそうです。
たしかに、ここから先は、大変そうでした。
「家相」などを見るときに、「丑寅」の方向、すなわち、「東北」を、「鬼門」にしたり、「未申」の方向、すなわち、「南西」を、「裏鬼門」として、トイレなどを配置しないように工夫したり、お祓いしたりしますね。
これは、元々は、この「イザナミ」と「イザナミ」の二人の墓、つまり、「人祖の墓」を、「貴門」と呼び、ここを日本の基準点にしたことから、始まっているのだそうです。
凄い場所だったのですね~!
私たち3人は、この山の頂上に行くのは、諦めたのですが、山から下りてきたら、道路も走っていて、橋が架かっている、素敵な神社を見つけました。
後から知ったのですが、この神社の拝殿が、「イザナギ」と「イザナミ」の二人の墓を向いていて、山の頂上まで行かなくても、ここから、参拝できるようになっているとのことでした。
「調宮(ととのみや)神社」という名前で、多賀大社の御旅所として、知られているそうです。
境内には、大きな木生えていました。
拝殿で参拝しました。
「人祖」の墓に手を合わせることができる、素晴らしい神社です。
拝殿の奥のほうに、巨石がありました。
記念撮影しました。
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