「補陀落渡海」の痕跡は、関東地方の西側、「神奈川県」にも、いつくか残っていました。
「神奈川」という県名も、意味深です。
文字を分解すると、
「大(☆)」+「三(川)」+「神」+「示」
となります。
「宇宙からやってた三つの神が、示した場所」
こういう解釈もできますね。
「三つの神」とは、
「植物」-「動物」-「人間」
この「三つ巴」かもしれません。
- 神奈川県には、裏の古代史を語る上で、いくつか面白い所があります。
- まず、一つ目の場所は、神奈川県足柄下郡湯河原町です。
- 海沿いにあります。
- おそらく、この浜辺にも、和歌山県の「補陀落山寺」から来た小舟が、漂着したと思います。
- この浜辺には、「子之神社(ねのじんじゃ)」という神社があります。
- 名前が、全てを語っていますね。
- 「子之神社(ねのじんじゃ)」は、「このじんじゃ」とも読めますね。
- 京都府の丹後地方にある、「イザナギ」と「イザナミ」が生まれた場所、「籠神社(このじんじゃ)」ですね。
- 「子之神社」=「籠神社」
- ということです。
- やはり、ここも、「イザナギ」と「イザナミ」の子孫たち、「天照派」が、辿り着いた場所だったのですね。
- 京都の「籠神社(このじんじゃ)」です。
- 拝殿で参拝しました。
- 屋根のあたりに、「三つ巴」がありました。
- ここの拝殿の中に、お祭りで担ぐ神輿が置かれていました。
- 驚きました!
- 朱い鳥居が、四方向を囲っていますね。
- 四方から朱い鳥居が囲っている場面、どこかで、見たことないですか?
- ハイ!
- 「補陀落山寺」の小舟ですね。
- やはり、間違いなく、ここにも、小舟は辿り着いていたのです。
- この神社の隣に、お寺がありました。
- 前回書いたように、隣同士ということは、間違いなく、同じグループだということです。
- 仲が悪ければ、離れるはずです。
- 家族くらい近い仲じゃないと、長年、隣同士では住めません。
- 名前を見て、驚嘆しました。
- 「醍醐院」と書かれているではないですか~!
- わかりましたね。
- 「天照派」のリーダーだった天皇、「後醍醐天皇」です。
- 「吉野神宮」の祭神ですね。
- ここも、「天照派」の拠点だったのです。
- この神社と寺の最寄りの駅は、「真鶴」という名前なのですが、やはり、京都の「舞鶴」とも関係あると思います。
- 「真鶴」=「舞鶴」
- こうなると思います。
- 帰りに、この駅の前に貼られていたポスターを見て、またまた驚きました。
- 「えーっ!」
- と思いました。
- 地元で行われる、「貴船祭」というお祭りだそうです。
- この神輿にも、「三つ巴」が刻まれていますね。
- そして、よく見ると、「子之神社」の神輿と同じように、四方を鳥居が囲っているではないですか~!
- 小さな鳥居が、全てを表現しています。
- 間違いなく、この神輿は、「補陀落山寺」の小舟を、担いでいるのです。
- やはり、「祭り」というイベントには、とても深い意味が、隠されているのですね。
- おそらく、「天照派」のグループが、「西日本」から「東日本」に渡ってきたことを、祝福する祭りなのだと思います。
- それから、しばらくして、神奈川県の「鎌倉」にも行ってきました。
- ここにも、秘密が隠されている予感がしたからです。
- まずは、有名な「鶴岡八幡宮」にも、参拝に行きました。
- やはり、ここにも、あちらこちらに、「三つ巴」のシンボルがありました。
- そして、ここから、ちょっと歩いた場所にある、「鎌倉宮」にも行きました。
- 御祭神は、「護良親王」だそうです。
- この人物の正体は、調べてみると、「天照派」のグループのリーダーだった、「後醍醐天皇」の息子だそうです。
- なるほど…
- 拝殿で、参拝しました。
- この近くには、「杉本寺」もあります。
- 「杉」=「三」+「十」+「八」
- でしたね。
- 「三十八の子孫の本部の寺」
- という意味じゃないかな?
- さらに、この寺は、「坂東三十三箇所」の一番目の寺だそうです。
- これは、関東から房総半島にかけてある、33か所の「観音霊場」のことですが、
- この寺が、1番最初のスタート地点で、房総半島の館山市にある、「補陀落山寺」の山号をもつ、「那古寺」が、最後の33番目です。
- なんと、私は、無意識で、最初と最後の寺にだけ、導かれていたのです。
- 貫禄のある本堂で、記念撮影しました。
- 境内には、摂社もありました。
- 「熊野大権現」ですね~!
- 「三つ巴」がありました。
- 近くには、「熊野神社」もありました。
- やはり、「三つ巴」がありました。
- なんと、鎌倉市内にも、「補陀落寺」がありました。
- とても小さな寺です。
- ここで、この看板を見た時には、特に何も気づきませんでした。
- しかし、あとから、友人の武田さんが、この寺の御朱印を見て、あることに気が付いて、写真を送ってくれました。
- 左下の黄色の部分に、
- 「南向山 帰命印 補陀落寺」
- こう書かれていますね。
- つまり、こういうことです。
- 「天照派のグループが、京都から南の山に向かった。つまり、和歌山ですね。それから、命を落とさずに、無事に、この世界に帰ってきた。その寺院が、補陀落寺である」
- こういう意味だと、私は解釈しました。
- 何もかも、全ての事実を書いているのです。
- ここの寺は、小さすぎて、これ以上の情報は、仕入れることはできませんでしたが、その後に、ある地図を見て驚きました。
- これです。
- 見てわかるように、「補陀落寺」のすぐ近くに、「光明寺」という大きな寺があります。
- ちょっと古代史を学んだら、わかるのですが、古代においては、
- 「天照派」 VS 「神武派」
- だったのですが、さらに、詳しい内訳は、
- 「天照派(穏健派)」=「南朝」=「奈良」=「後醍醐天皇」
- 「神武派(武闘派)」=「北朝」==「京都」=「光明天皇」
- こういう構造だったのです。
- つまり、「補陀落寺」という「後醍醐天皇」の近くに、「光明寺」があるのです。
- おそらく、この寺の名前から、「光明天皇」と、何らの関係があると思われます。
- ただの偶然かもしれませんが、この場合、偶然とは、考えないことにします。
- 結論から、先に言うと、
- 「仲が悪いはずの二人の天皇に関係ありそうな、二つの寺が、隣近所の距離に、仲よく並んでいる」
- ということです。
- そこで、調べてみると、もともと、「南朝」と「北朝」というのは、日本において、権力者同士の争いであって、下っ端の武士や庶民などは、普段の日常では、あまり、敵対していなかったという記録も、残ってるそうです。
- 普段は、庶民同志は、一緒に、同じ銭湯や温泉に入ることも、あったようです。
- このあたりが、外国と違い、日本的ですね。
- 現代でも、選挙の時以外は、違う政党支持者たちも、同じ会社の同僚であれば、一緒に、ランチを食べたりしますね。
- そういうかんじだったのかもしれません。
- 私たちは、いつの間にか、物事を、
- 「白か? 黒か?」
- という極論で考える癖が、できているようです。
- 実際の世の中は、たくさんの色が、千変万化に変化したり、状況によって、いくつかが混じったりするのです。
- とても複雑で、単純に分けられるものではないのです。
- このように、「鎌倉」においては、「天照派」と「神武派」は、仲よくやっていたのかもしれません。
- 理由はわかりませんが、もしかしたら、
- 「東日本まで来て、喧嘩したり、争うのは、もうやめようよ」
- こういう話をして、和解したのかもしれません。
- 「鎌倉」という街を散歩していたら、綺麗な海岸線の景色が、見えてきます。
- たしかに、この景色を見ていたら、喧嘩なんか、やる気になりませんね。(笑)
- ある説によると、日本においては、明治時代に、「北朝」と「南朝」は、融合したという話も、聞いたことがあります。
- なんでも、「明治天皇」は、バリバリの「北朝のリーダー」だったそうですが、同時に、大の「南朝のファン」だったそうです。
- 面白い人物だったのですね。
- そういえば、名前も、
- 「日」と「月」と「治」ですね。
- 「日と月の神様が治める時代の天皇」
- という意味だったかもしれませんね。
- 「日月神示」の神様とも、何か関係があったかもしれませんね。
- さて、「光明寺」にも行ってきました。
- 「光明寺」の名前にも、「日」と「月」が入っていますね。
- 「日と月の光が輝く」
- という意味ですね。
- ここでも、また、「日食」、つまり、「ダイヤモンドヘッド」が出てきましたね。
- 境内に入って、山門に掲げられている文字を見て、驚嘆しました。
- 見てください!
- この寺の山号は、「天照山」なのです!
- あまりにも、意表を突く展開に、もう笑ってしまいました。
- 本堂です。
- 境内には、「八角形」のお堂もありました。
- この寺の裏山には、「天照大神宮」という名前の神社もあります。
- そして、「天照山」という山もあります。
- しかし、実際に近くまでいくと、小さな摂社でした。
- この摂社の近くには、道路沿いに、「鬼瓦」もありました。
- そして、一番奥には、奥宮のような場所があるのですが、そこが、「天照山」になります。
「三つ巴」の瓦ですね。
ここには、いわゆる、「お墓」と呼ばれている場所なのですが、私には、あまり、「お墓」には見えませんでした。
そして、
「この景色、どこかで見たな… どこだったかな…?」
しばらく考えていたら、わかりました。
熊野の「補陀落寺」の裏山に、ちょっと似ているのです。
これです。
ということは…
「熊野」も「鎌倉」も、両方とも、同じグループが、拠点にしていたのだと思います。
鎌倉でも、面白いシンクロがありました。
友人の武田さんと、駅前のお店で、食事をしながら、「補陀落渡海」について、語り合っていた時のことです。
最初は、カフェで、お茶しました。
それから、お腹がすいたので、夕食を食べに入ったお店に、これが、置かれていました。
私たちの席の前でした。
後ろの部分が、「鳥居」にも見えますね。(笑)
二人で、
「うわー!」
と叫びました。
古代史を探る旅では、こういうシンクロが、バンバン起こります。
やはり、神界から導かれているのだと思います。
以前に、武田さんから教えていただいたのですが、沖縄平和記念公園には、戦没者の名前の刻まれた石碑がありますが、そこには、敵国の兵士、つまり、アメリカ軍の戦没者の名前も、同時に刻まれているそうです。
いろいろ調べてみたら、この動きは、実は、日本中にあるみたいです。
「靖国神社」の境内にも、亡くなったアメリカ軍の兵士の魂を、慰霊する場所があるそうです。
今回の旅行中も、いろいろなことを考えながら、旅したのですが、特に思ったのは、「天照派」の人々の愛の大きさです。
「敵も愛する」
こういう理想は、いきなりは、できないかもしれませんが、長い時間をかけたら、可能なのだと思いました。
私たちが、理想で描く、「平和な世界」というは、思ったよりも、早く実現するのかもしれませんね。
学生の頃、ある人間関係で、とても悩んでいた時に、当時の親友、Y君が、酒の席で言った言葉を思い出しました。
「大丈夫だよ。きっと、時間が解決するから! この世界にはね、全ての問題が解決する万能薬が、一つだけあるんだ。それはね、時間だよ。何十年か経ったら、今、喧嘩している皆で、笑い合える日がくるよ!」
「古代日本ピースツアー」は、今回で終わります。
「補陀落渡海」については、引き続き調査していますが、今月に入ってから、沖縄にも、「補陀落渡海」で流れ着いた僧がいたという話を知って、その調査で、沖縄に向かったのですが、ここにも、凄い秘密が隠れていました。
全ての謎を解く鍵は、「沖縄」にあったのです。
その話は、また、新しいシリーズで、改めて書こうと思っています。
いつものように、恒例の締めの言葉で、終わらせていただきますね。
「私には夢がある。いつの日か、ジョージアの赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちと、かつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟(対等の価値のある人間)として、同じテーブルにつく日が来るという夢が。私には夢がある。いつの日か、私の4人の幼い子供たちが、肌の色ではなく、人格そのものによって評価される国に住める日が来るという夢が」
by マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師
<アメリカ公民権運動、最大の指導者。1964年、ノーベル平和賞受賞>
☆1963年8月28日の「ワシントン大行進」で、リンカーン記念塔の前において、25万人の人びとに行った演説、「I Have a Dream」(アイ・ハブ・ア・ドリーム)より。
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