東京は、昼間は、たまに汗ばむほどの陽気になりますね。
もうすぐ、初夏になりますね。
昨日は、久しぶりに、東京都内にある、井の頭公園に行ってきました。
とても気持ちがよく、のんびりできる空間ですね。
特に、弁才天のあたりは、いい氣が充満していますね。
いつものように、記念撮影しました。
4月からは、人生において、新しい節目を迎えた方が、たくさんいると思います。
新しい学校に入学した方もいるだろうし、新しい会社に入社したり、新しい職場に転職したり、同じ会社内で転勤になった方もいると思います。
自分の希望していた、新天地に落ち着いた方もいれば、不本意な学校や職場に、仕方なく居座ることになった方もいるでしょう。
第二希望や第三希望の学校に、入学した方もいるでしょうし、会社から、いきなり、僻地への左遷、それから、降格人事を告げられた方もいるでしょう。
そして、自分よりも、格上だと言われている学校や会社、それから、立場の人々に、「コンプレックス」や「劣等感」を感じている人もいるでしょう。
今回は、このような不本意な場所にとどまることになった方のために、この記事を書こうと思います。
以前にも、書いたのですが、また、このテーマで書きたくなりました。
私は、学生時代、よく自己嫌悪に陥っていました。
今でも、たまにそうなりますが、思春期というのは、誰でも、この状態になりやすいと思います。
「ああ、あんなこと言わなければよかった。なんて、馬鹿なこと、言っちゃったんだろう…。ああ、またあんな馬鹿なことをしてしまった。やらなければよかった…」
いつも、こうやって、後悔したり、悩んだりしていました。
ある日、友人の一人が、私と全く同じように悩んでいることが、わかりました。
よく話を聞いてみると、もう、周りの皆が、とっくに忘れてしまっているような、どうでもいいことで悩んでいました。
「まだ、そんなこと気にしていたの?」
と思いました。
同時に、自分も全く同じ状態であることに、気が付きました。
考えてみれば、人間というものは、人との会話など、ほとんど気にしていないのです。
その時の気分で、結構皆、いい加減なことを言っているのです。
特に、悪口や陰口などは、皆に、適当に軽く話しているのです。
試しに、2日前のランチで、友人たちと、どういう会話をしたのか、思い出してみてください。
ほとんど、思い出せないと思います。
ついでに、その2日前の、ランチのメニューは、何でしたか?
これも、ほとんどの人は、覚えていないと思います。
人間の記憶力などというものは、そんなものなのです。
特に、悪口を言う人は、本当に気軽に言います。
そして、2日もすれば、忘れています。
いつまでも、その悪口を覚えているのは、言われた人だけです。
このことから、「悪口」や「陰口」などを気にするのは、とても無駄で、馬鹿馬鹿しいことだということが分かります。
自分が、相手に言った不用意な失言、悪口、そして、失敗などにも同じ事が言えると思います。
自分が思っているほど、他人は自分のことなど、気にしていないのです。
皆、自分のことばかり、考えているのです。
他人の死よりも、自分の頭痛や歯痛に、100倍も気をつかうのが、ほとんどの人間なのです。
学生の頃、この事実に気が付いてから、ずいぶん気が楽になりました。
「今日の昼間、友人のあいつから悪口を言われたけど、今ごろ、あいつ、そんなこと、全く忘れて、テレビでも見ながら、笑ったりしているんだろうな? じゃあ、自分が、その悪口で、クヨクヨ悩むなんて、アホらしいな…」
こう思えるようになったのです。
当たり前のことですが、大切なことです。
「他人の目」というのは、いい加減なものなのです。
「世間の評価」もそうです。
これは、
「他人の評価を、気にしないほうがいい」
ということではなく、
「不当な他人からの評価は、気にしなくてもいい」
ということなのです。
やはり、
「自分のことは、自分が一番知っている」
ということです。
沖縄の大学に通っていた頃、「社会学」という講座で、その講師から、こういう話を聞いたことがあります。
その講師は、20代の頃、琉球大学の大学院で、「社会学」を学んでいたそうです。
ある時、九州の長崎で、九州全体の大学院生が集まって、社会学の「研修会」が行われたそうです。
その時その講師は、大学の「偏差値」で、交際する学生を選ぼうとしたそうです。
「琉球大学と、佐賀大学、鹿児島大学、長崎大学は、偏差値のレベルが、同じくらいだから、話が合うだろう。この人達と付き合おう。逆に、九州大学の人たちは、偏差値が高いから、話が合わないだろう。ああいう、エリートたちと付き合うと、劣等感を感じるから、なるべく話をしないようにしよう」
こう思っていたそうです。
ところが、実際に研修に参加してみて、全く事情が違うことに気が付いたそうです。
琉球大学のグループが、一番明るく、楽しそうに研修を受け、偏差値が高くなるにつれ、元気がなくなり、一番暗くて、元気がなかったのが、九州大学の学生だったそうです。
不思議に思って、その九州大学のグループと話をしてみると、皆、
「高校の頃の仲のよかった友人たちは、皆、東京大学や京都大学に行ってしまった。自分だけ、九州大学にしか入学できなかった…」
こう言ったそうです。
この話から、この講師は、
「学歴や偏差値のピラミッドは、自分の意識を変えない限り、永久に続くのだ。このピラミッドは、どこまでいっても頂点などないのだ」
この事実に気が付いたそうです。
確かにそうです。
東大や京大の中にも、ピラミッドは、あります。
どこにでも、優秀な学生や落ちこぼれは、必ずいるのです。
さらに、ここでトップになっても、世界にはもっと優秀な大学は、ごろごろあります。
日本の東大など、あるランキングによると、世界では、上位に入っていないそうです。
世界の一流大学の中にも、またピラミッドがあります。
もうきりがないのです。
仮にそこで、トップになっても、現在の学問など、30年もすれば、すぐに時代遅れになります。
「自己嫌悪」、「嫉妬」、「コンプレックス」などの問題を解決できるのは、結局、「自分の意識」しかないのです。
「自分の意識」で、それらの定義付けを変えない限り、死ぬまで付きまといます。
余談ですが、「偏差値」というのを、日本で流行らせたのは、アメリカの政府だそうです。
1960年代の「日米安保闘争」での日本の若者たちが、あまりにもパワフルで、アメリカの政府は困ったそうです。
それで、いろいろ策略を考えたそうです。
「どうすれば、日本人、特に、日本の若い男性を、おとなしくて従順にすることが、できるだろうか? それも、なるべく低い予算で、コストをかけずにやるには、どうしたらいいだろうか?」
さんざん考えた末に、でてきた答えが、「偏差値」だったそうです。
こういうモノサシを、人工的につくって、日本の若者たちに、
「お前になんて無理!」
「身の程をわきまえろ!」
こうやって、低学歴の男性は、あたかも、世の中から必要とされていないという、「無価値」のイメージを植え付けて、彼らを無力化することに成功したのだそうです。
つまり、
「東大や京大などの一流大学に入れなかった人間は、バカばかりだ!」
と、思い込ませることにしたそうです。
この計略は見事に成功して、現在でも、「学歴コンプレックス」で、貴重な青春時代を、暗い気持ちでになり、自信を失って過ごしている若者がたくさんいます。
「学歴コンプレックス」で苦しめられている原因が、アメリカからの「洗脳」であり、一種の「軍事攻撃」だと知っておくと、かなり意識が変わると思います。
なんでも、知らないよりは、知っておいたほうがいいです。
そもそも、「偏差値」などで、「人間の価値」など決まるわけがないし、18歳という若さで、「人生の方向性」など、決まるわけがないという、当たり前のことを、もう一度、考えてみてください。
では、どうすれば、アメリカからの洗脳で、がんじがらめにされた、偏差値、つまり、ピラミッドの束縛から、解脱できるのでしょうか?
それは、
「本当に好きなことをやる」
ということです。
これをやっていると、「他人の目」を気にしなくて済むようになるのです。
逆に、「他人の目」が、もし気になっているようなら、それは、「本当に好きなこと」ではないのです。
「本当に好きなこと」なら、すぐに、その分野の第一人者になれます。
興味があるものだから、努力が苦にならなくなるのです。
自分も他人も、ハッピーになりやすいのです。
その分野のピラミッドの頂点には、短期間ですぐに立てます。
例えば、山で山道に迷った時、一番確実に、自分の現在地や目標地を、把握しようと思ったら、その山の頂上にまずは、一気に登ることです。
「山で迷ったら、川を見つけて、川沿いを歩きなさい」
という話を、よく聞きますが、夜道などでは、崖などから、滝に落ちる可能性もあり、逆に危険なのだそうです。
迷った場合、あまり高い山じゃない場合ですが、いったん遠回りして、頂上を目指したほうが、安全らしいのです。
頂上からの眺めからは、どこに行けば、大きな道があり、民家があるかなど、よく見渡せます。
その頂上で、いったん、落ちついてから、いろいろな計画を立てるのです。
そうすれば、次の行動が、的確にできます。
また、別のピラミッドの頂上にいる人達とも、すぐに友達になれます。
これは、ピラミッドの大きさに関係なく、頂上にいる人同士というのは、仲良くなりやすいのです。
私の場合は、30代の頃、「パワーリフティング」という競技で、ある程度のピラミッドの頂点に登りました。
小さな団体でしたが、いくつもの大会で、優勝もしました。
そこまで行くと、この分野のことは、隅から隅まで、よく見えました。
また、別の分野のトップの人たちとも、すぐに打ち解け、仲良しになれました。
やはり、一つのことを、ある程度まで、究めるということは、いいことだと思います。
しかし、この競技を始めたばかりの頃は、周りからの「嫉妬」や「コンプレックス」に、苦しめられました。
「コンプレックス」から、開放されようと思い、ようやく見つけたものだったのに、また、この分野で成功し始めたとたん、周りが、「嫉妬」を、はじめたのです。
23歳の頃、ジムで練習していると、皆から、
「ト-マ君の筋肉やパワーは、どうせ、ドーピングだよ。ステロイド(筋肉増強剤)を使って、強くなっているだけだよ」
こういう悪口や陰口を聞かされました。
全く根拠のない誹謗中傷だったのですが、最初は気にならなかったのですが、後からさすがに、だんだん気になり始め、結局、そのジムを辞め、別のジムに変わりました。
その当時、ああいう、「嫉妬」や「猜疑心」で心が一杯になっている人達と、関わっている時間があれば、もっと練習に集中したいと思ったのです。
皆、記録を伸ばしていく私の存在が、面白くなかったようでした。
もっとも、トップクラスのスポーツマン達で、嫉妬する人はいませんでしたが。
今考えると、嫉妬されるぐらい、そのジムの皆が、私の努力や素質を、認めていたのだと思います。
悪口を言われるぐらい、私はワクワクしていたのでしょう。
できれば、「嫉妬」は、自分もしたくないし、人からも受けたくないですね。
「嫉妬」は、英語で、「Jealousy」や「Envy」と表現するそうです。
「Envy」の語源は、ラテン語で、
「横目で見る」
という意味だそうです。
人生というものは、なるべく横目ではなく、正面を正視しながら、歩きたいですね。(笑)
「コンプレックス(Complex)」の語源も、ラテン語らしいのですが、これは、
「共に折りたたむ」
という意味だそうです。
「コンプレックス」というのは、与えるほうも、貰う方も、お互いで創りだしている、「共同創造」なのです。
アメリカのワシントンに、バーナード・バルークという大統領顧問がいたそうです。
ウィルソン、ハーディング、クーリッジ、フーバー、ルーズベルト、トルーマンなど、6人のから絶大な信頼を寄せられた人物だったそうです。
ある時、有名なデール・カーネギーが、インタビューの席で、
「あなたは、政敵からの攻撃や嫉妬、誹謗中傷、侮辱、コンプレックスなどに、苦しんだことはありませんでしたか?」
と質問したことがあったそうです。
すると、バルーク氏は、
「だれ一人として、私を、嫉妬、誹謗中傷、侮辱などで、苦しめることはできないよ。そんなことは、この私が許さないからね!」
こう強く答えたそうです。
つまり、
「だれも、私を嫉妬、誹謗中傷、侮辱することはできない。私が、それを許さない限り!」
ということです。
「コンプレックス」などは、世間が半分、そして、残りの半分は、自分が創造しているのです。
簡単に言うと、「コンプレックス」を感じるということは、それらを感じることを、自分が許しているからだということです。
感じることを許さなければ、苦しまないのです。
「共同創造」というものは、どちらかが、創造を放棄すれば、成立しないのです。
現在、そういうネガティブな人間関係で、苦しんでいる方がいたら、そのネガティブな共同創造を、一方的に放棄してください。
こちらが、創造を拒絶すれば、その創造は成立しないのです。
PS 1960年代、日米安保闘争の時、日本の若者が、凄く反発しているのに、恐怖を感じたアメリカの政府が、若者のパワーを、無力化して、弱体化させるために考案した洗脳が、「偏差値」だったそうです。
これによって、「学歴コンプレックス」が、日本全体を覆い尽くし、若者が自信を持てなくなってしまったというのが、戦後の隠れた歴史なのです。
1990年代に流行った、「三高(高学歴・高収入・高身長)」などの言葉も、そうだと思います。
写真は、1960年5月14日の国会前です。
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