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古代日本パイオニアツアー 7 補陀落山寺

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とうとう、秘密の扉を開けてしまいましたね。

ここからは、もう後戻りできないかもしれませんよ。(笑)

 

では、真実の日本史を、少しづつ語っていきますね。

 

 

絶対平和主義で、他人への攻撃ができないために、弾圧されたり、冷や飯を食わされていた、「天照派」の人々は、西日本で、閉塞状態になっていたようです。

 

陸地から、東日本を目指そうと思っても、要所には、関所のようなものがあり、見張り番がいたと思います。

 

そもそも、仮に、東日本に行っても、荒れた僻地だったので、行っても、そこでは、過酷な生活が待っていることは、明白だったと思います。

 

それでも、西日本に住んでいても、これから先、永遠に、苦しい生活が、続くのは、目に見えていました。

 

「よし! 凄い冒険になるかもしれないけど、東日本に移住して、新しい土地で、新しい時代を築いていこう!」

 

ある時、こう決意したのだと思います。

 

海から、東日本を目指そうと思っても、そんなに遠くまで行こうと思ったら、大きな船を造船しないといけなし、そんな技術もお金もなかったので、途方に暮れていたようです。

 

 

そんなとき、一人の救世主が現れます。

 

「聖徳太子」

 

この人物が、助けたのです。

聖徳太子の登場で、日本史の中で、最高にスリリングなドラマが、始まったのです。

 

救世主というのは、「天照派にとっての救世主」という意味です。

 

私は、「聖徳太子=キリスト説」を、主張していますが、まさに、日本においては、聖徳太子が出現する前と後では、西洋での「紀元前(B.C)」と「紀元後(A.D)」に分かれるくらいの時代の大変化だったのです。

 

聖徳太子というのは、この大プロジェクトを実行するために、日本に誕生したのだと思います。

 

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彼らにとっては、「西日本」は、まるで、監獄にいるように、不自由な土地でした。

 

そこで、新天地の「東日本」への脱出を試みたのです。

 

ちょっと前に、大ヒットしたアメリカのドラマに、「プリズンブレイク」というのがありましたね。

あれの日本版が、日本でもあったのです!

 

 

 

前回、「熊野権現神社」の話をしましたが、この神社の隣に、日本史における、最重要な寺があります。

 

「補陀落山寺」

 

この名前、聞いたことありますか?

私は、最近、初めて知りました。

 

 

先週、行ってきました。

駐車場に着いたら、看板のようなものがありました。

なんと、「世界遺産」にも指定されているそうです!

 

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「八咫烏」の絵がありました。

 

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本堂の前で、記念撮影しました。

 

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この文字に、感動しました。

 

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この記念碑の前でも、記念撮影しました。

 

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境内には、仏像がありました。

おそらく、「イザナギ」と「イザナミ」だと思います。

 

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この二人の子供は、38人の子供たち、長男の「別雷尊」、それから、長女の「玉依姫」だと思います。

 

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本堂の中には、ご本尊の仏像もありました。

これは、42本の手を持つ仏像ですが、意味は、正面の4本の腕が、「イザナギ」と「イザナミ」の腕で、残りの38本が、38人の子供の腕を意味しているそうです。

 

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「補陀洛山寺」は「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の出発点だったことで、知られているそうです。

 

私は、この渡海のことは、全く知りませんでした。

今年になってから、あるキッカケで知ったのです。

 

 

ネットで調べると、こういう説明が出てきます。

 

 

「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある、観音菩薩の住まう浄土のことをいい、「華厳経」には、インドの南端にあると、説かれているそうです。

 

「観音信仰」の流布とともに、チベットや中国にも、「補陀落」は、想定されたようです。

チベットでは、ラサ北西に建つ、観音の化身、「ダライラマ」の宮殿を、「ポタラ(補陀落)宮」と呼び、中国では舟山諸島の2つの島を、「補陀落」としたようです。

 

日本においては、南の海の果てに、「補陀落浄土」はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して、船出することを「補陀落渡海」と言ったそうです。

そして、この信仰を広げたのが、前述した、聖徳太子だったのです。


日本国内の補陀落の霊場としては、那智の他に、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などがあったそうです。

 

記録に残された40件ほどの補陀落渡海のうち、半数以上が、この熊野那智で行われています。

熊野は、補陀落渡海の根本道場といってもよい場所だったようです。

 

聖徳太子の時代から、江戸時時代まで、これは、行われていたそうです。

 

 

チベットの「ポタラ宮殿」とも関係してたのですね。

そういえば、チベットも絶対平和主義の人たちが多く、そのために、迫害されていますね。

日本の「天照派」と、同じルーツだと思います。

 

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この「ポタラ宮殿」の地下は、地底王国の「チャンバラ」があると言われていますね。

もしかしたら、熊野の「99人の王子」の意味は、この王国の王子という意味だったかもしれません。

 

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「補陀落山寺」の本堂の中には、当時の様子を描いた絵もありました。

 

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ネットで調べると、こういう説明が出てきます。

 

 

那智の浜からは、25人の観音の信者が、補陀落を目指して、船出したと伝えられています。

 

補陀洛山寺境内にある石碑に、それらの人々の名が、刻まれています。

 

平安前期の貞観十年(868)の慶龍上人から、江戸中期の亨保七年(1722)の宥照(ゆうしょう)上人まで25人。

平安時代に5人、鎌倉時代に1人、室町時代に12人(そのうち11人が戦国時代)、安土桃山時代に1人、江戸時代に6人。

補陀落渡海の多くは11月、北風が吹く日の夕刻に、行われたそうです。

 

渡海僧は当日、本尊の千手観音の前で、読経などの修法を行い、続いて隣の三所権現を拝し、それから船に乗りこんだとも伝わっています。

 

渡海僧は、30日分の食料と灯火のための油を載せて、小さな屋形船に、乗りこんだそうです。

 

 

説明は、さらに、このように続きます。

 

 

渡海僧が、船の屋形のなかに入りこむと、出て来られないように、扉には、外から釘が、打ちつけられたそうです。

 

渡海船は、白綱で繋がれた伴船とともに、沖の綱切島あたりまで行くと、綱を切られ、あとは波間を漂い、風に流され、いずれ沈んでいったものと思われる。


渡海僧は、船が沈むまでの間、密閉された暗く狭い空間のなかで、かすかな灯火を頼りに、ただひたすらお経を読み、死後、観音浄土に生まれ変わることを願い、そして、船は沈み、入水往生を遂げたのでしょう。

 

船のしつらえや渡海の方法などは、時代により異なるのでしょうが、補陀落渡海とは、いわば生きながらの水葬であり、自らの心身、を南海にて観音に捧げる、捨身行だったのでした。

 

 

こう書かれています。

これが、一般的な認識です。

 

 

 

境内には、この石碑がありました。

 

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名前もありました。

記録に残っているだけの名前です。

実際には、もっと多くの人が、この渡海をやっていたと思います。

 

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渡海僧が乗りこんだ船を、復元したものが、境内にある建物のなかに、展示されています。

 

これです!

これが、見たかったのです!

 

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奇妙な形をした小さな船です。

船の上には屋形が、作られています。

その屋形の前後左右を、4つの鳥居が囲んでいます。

 

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人が、一人だけ入ることができる、テントのような小屋がありました。

前述したように、ここに、僧侶が一人だけ入り、外からは、釘が打たれ、中から出られないようにしていたそうです。

 

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もちろん、現在のようなスクリューなどはなく、櫂も帆もなかったそうです。

だから、一度、海に出たら、クラゲのように、ただ漂うだけだったのです。

 

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舟が出る時には、この旗を掲げたそうです。

「76の音」を意味する、「南無」が入っていますね。

 

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寺の裏山には、亡くなったとされる僧侶の墓が、ありました。

数えると、19でした。

19組の夫婦、つまり、38人の数ですね。

 

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ここからが、いよいよ本番です!

 

「補陀落渡海」は、このように、昔も現在も、狂信的でカルトっぽい儀式だったと、世間一般では思われています。

 

しかし、よく考えてください。

 

こういう、「即身成仏」の行為をやる意味は、何なのでしょうか?

ましては、何のために、わざわざ、海の彼方に行って、死ぬ必要があったのでしょうか?

 

ただ死ぬだけのために、これをやっていたとしたら、ただの馬鹿だと思います。

 

 

勘の良い方は、もうわかりましたね。

 

そうです。

 

「西日本」から「東日本」への脱出が、真の目的だったのです!

 

「空と海の彼方の極楽浄土へ行くために、舟に乗って、太平洋の彼方に行き、そのまま、沈没して、海の藻屑となり、即身成仏する」

 

というのは、「神武派」たちのグループの目を、ごまかすための偽りの儀式だったのです!

 

 

本当のことは、隠されていました。

 

実際には、こうだったようです。

 

途中まで、付き添いの数隻の舟が、綱を引っ張り、途中の小島から、突き放したようです。

 

「よ~し! 行ってこ~い!」

 

こう叫んだかどうかは、わかりませんが、沖の向こうまで、その小舟を流したそうです。

 

 

すると、浜辺から4キロくらいの所に、当時から、「黒潮」が流れていたのです。

 

そして、うまく、「黒潮」の乗れば、それは、大きな河のような流れで、「東日本」まで、運んでくれたのです。

 

ちなみに、黒潮の最大流速は、最大で4ノット(約7.4km/h)にもなり、軽くジョギングしているくらいのスピードなので、1週間以内では、確実に、「東日本」にある、どこかの浜に、漂着したと思います。

 

そして、当時から、忍者のような存在たちがいて、秘密裏に、いろいろな手配をして、「東日本」の浜に漂着したら、事前に、その場所に着いていた人々が、打たれていた釘を外し、中から、その僧侶を、助けたのだと思います。

 

そして、その背後で、この秘密の脱出劇を、計画して動かしていたのが、「聖徳太子」のグループだったというわけです。

 

 

黒潮です。

 

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面白いのは、東から西に流れる潮の流れもあり、一人だけ、当時の琉球に流れ着いたお坊さんもいたそうです。

 

日秀上人という僧が、理由はわかりませんが、逆の流れの潮流に乗り、琉球に着き、補陀落浄土からやってきた僧として、琉球王にも珍重され、金武町に、「観音寺」を建立したそうです。

その後、沖縄に、30年滞在した後、薩摩に移ったそうです。

 

沖縄には、昔から、

 

「水平線の先、空と海の交わる先に、極楽浄土がある」

 

という、「ニライカナイ」という信仰がありますが、もしかしたら、この「補陀落渡海」とも関係あるかもしれません。

 

そういえば、沖縄の人たちも、「平和主義」の人が多いですね。

「天照派」のDNAが多い民族かもしれませんね。

 

 

そして、もしかしたら、この「空と海の交わる先の極楽浄土」から、派遣された使者が、「空海」だったのかもしれません。

 

 

 

「補陀落山寺」の本堂には、この写真もありました。

 

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住職さんによると、結婚する前の独身時代に、「浩宮殿下「」が、やってきたそうです。

 

もしかしたら、私のように、真実の歴史の調査のために、この寺を訪れていたのかもしれませんね。

 

 

 

和歌山県の那智では、「中の島ホテル」という所に、泊まりました。

美味しい食事に、素晴らしい露天風呂で、最高でした。

 

正面玄関の前で記念撮影しました。

 

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このホテルは、小さな小島にあります。

ホテルの絵です。

 

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朝、モーニングを食べた後、島の頂上まで、散歩しました。

 
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すると、東の空から、朝日が昇ってきました。

 

この朝日を見ながら、

 

「ああ…、この景色を見ながら、天照派の人たちが、僧侶の姿で、新天地を目指し、小舟で黒潮に乗って、東日本を目指したんだな…、ここが、新しい日本を新生しようと決意したパイオニアたちの聖地なんだな…」

 

こう思ったら、大感動して、また、目から涙が出てきました。

 

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「古代日本パイオニアツアー」、まだまだ続きます。

 

次回からは、舞台は、東日本に移ります。

 

お楽しみに!

 

 

 

 

 

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トーマ

 
 
toma_atlas@yahoo.co.jp

 


☆私のメインサントです。 

http://www.tomaatlas.com/

 

 


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