「イザナギ」と「イザナミ」の二人が、まだ地上に住んでいた頃、神に呼ばれて、38人の子供たちを連れて、「霊仙山」に行ったそうです。
この山は、滋賀県犬上郡多賀町と米原市にまたがる山です。
その山頂では、38人が、全員で輪になり、「イザナギ」と「イザナミ」は、それぞれの子供たちに、順序よく1人ひとりに、天に向かって、大きな声で、違う発声をさせたそうです。
すると、天からは、一言ずつ違った霊言が、返ってきたそうです。
38人の子供たちの声、それに合わせた、それぞれに違う霊言、合計76の言霊が、この時に生まれたそうです。
本来は、この76の言霊があれば、人間は、争ったり、喧嘩したりしないのだそうです。
それが、いつの間にか、50音の音に削られて、それから、さらに、現在では、世界中の国で、26音のアルファベットが使われるように、なってしまったそうです。
音や文字が少なくなるほど、人間は、表現の幅が狭くなり、自分の意思や気持ちが、うまく伝わらなくなるのです。
そして、その伝えられない部分を補おうとして、暴力をふるったり、怒鳴ったりして、喧嘩になるのです。
「76の言霊」が、元々の神言葉だったということです。
「76」という数字は、「仏教」においても特別な数字で、一説によると、「七六(なむ)」という言葉でも、表現されるそうです。
「南無(なむ)」の意味には、これも含まれるそうです。
「南無阿弥陀仏」
「南無妙法蓮華経」
こういう言葉を、聞いたことがあると思います。
古代の言葉の意味は、こうやって、さりげなく、いろいろな所に隠されているのですね。
「南無」という文字も、これから先の旅行記の中で、重要なキーワードになるので、覚えておいてください。
38人の子供たちは、それそれ、男子が19人、女子が19人で、それぞれ、カップルになり、結婚して世帯をもったそうです。
19組のカップルができたそうなのです。
その中でも、最初の長男と長女のカップルは、別格の扱いになったそうです。
この夫婦は、「大丹生・皇(おにゅうけ・すめら)」という名前が付けられ、後に、この子孫が、「天皇家」の家系になったそうです。
長男の名前が、「別雷尊(わけいかずちのみこと)」という名前だったそうです。
とても元気な身体で、拳を振り上げて、生まれたそうです。
そして、宇宙の源のエネルギーである、「丹生」の波動で、身体が輝いていたそうです。
それが、まるで、雷でも落ちて、発光していたように、見えたのかもしれません。
現代風の表現では、「凄いオーラをまとった身体」だったのだと思います。
だから、「雷から別れて、この世に誕生した赤ちゃん」という意味で、この名前をつけたのかもしれません。
神社の鳥居のしめ縄に、よく、白い紙が、下げられていますね。
これは、「カミナリ」の意味だそうです。
この長男、「別雷尊(わけいかずちのみこと)」の意味も、含んでると思います。
長女の名前は、「玉依姫(たまよりひめ)」と名付けられてそうです。
「玉のように美しい」という表現がありますが、ここからきていると思います。
この一族の中では、美しい女性の美称として、この表現を使っていたそうです。
「玉」という単語も、これから、重要なキーワードになります。
他の18組の夫婦は、「丹生家(にゅうけ)」となり、「天皇家」を補佐するグループになったそうです。
まとめると、「38人の子供」の中で、長男と長女の2人は、「天皇家」になり、残りの36人は、「補佐の役割」になったということです。
考えてみれば、日本の学校の義務教育において、一学級のクラスの人数は、だいたい40人前後が多いですね。
現在は、わかりませんが、私の学生時代は、そうでした。
この数字の根拠は、
「日本人の始祖である、イザナギとイザナミの神々でも、38人までしか、目が届かなかった」
ということなんじゃないかな?
これが、「日本人の原点」だと思います。
幅広い表現のできる、76の言霊を発し、決して争ったり喧嘩したりしないで、個性豊かで、平和な一族だったのです。
この最初の日本人の数を表現している、「三十八」という数字は、実は、とても特別な数字であり、日本の古代史の中で、様々な形で、暗号として隠されて、伝えられてきたようです。
たとえば、後世になって、人がたくさん集まる場所は、「都」と呼ばれるようになるのですが、この名前には、
「三(み)」+「八(や)」+「子(こ)」=「都(みやこ)」
という意味が隠されてたそうです。
「38人の子供が、最初に住んでいた土地」
というのが、「都」の隠された意味だったのです。
「京都」は、もちろんのこと、「東京都」、「宮城」、「三ノ宮」、「都城」、「宮古島」など、「みやこ」の文字が入る地名は、全部、この38人の子供に関係ある土地なのかもしれません。
そういえば、女性の「子宮」も、「子」と「みや」ですから、「38人の子供」という意味ですね。
この後、この38人の子供たちと子孫は、滋賀県の多賀大社の辺り、「栗栖」の里から、三重県いなべ市の「麻生田」に引っ越して、三代に渡り、ここに滞在したそうです。
「神様の大御心を、一日でも早く頂戴したい」
という願いを込めて、「意思呉(いしくれ)」という名前を、「麻生田」の近くの土地に、付けたそうです。
それが、現在の「石榑(いしくれ)」という土地名だそうです。
このようにして、「いなべ市大安町石榑」という土地が、日本初の「都」になったそうです。
38人の子供たちの痕跡は、日本中に、いくつか残っています。
たとえば、日本の大半の神社には、「杉」の木が生えていますね。
「杉」という文字を、分解してみてみました。
「三」+「十」+「八」
そうです!
「三十八」
だったのです。
さりげない暗号として、神社には、「三十八」の数字が、刻み込まれているのです。
「神社という場所は、38人の子供の土地だった所」
こう言っているのです。
他にも、福井県福井市には、「三十八社町」という町があります。
この町も、ある時期において、「38人の子供」が拠点にしていた所です。
つまり、太古の時代における、「日本の都」の一つだということです。
奈良県の吉野の近くにも、「三十八」の名前の摂社もあります。
「高天彦神社」という神社の境内にあります。
この小さな摂社の中に、「三十八」の文字があります。
滋賀県の「石山寺」の境内にも、「三十八社」の文字の書かれた鳥居があります。
「38人の子供」の話の続きです。
この子孫が、日本の古代史において、とても重要な流れなのです。
38人は、その後に、たくさんの子孫を増やしたそうです。
その後の話は、とても複雑なので、全部は書けません。
いろいろな出来事があったようですが、ここでは、思いっきり単純化して書きますね。
この一族の直系である、長男と長女の子孫は、「大丹生・皇」になり、「天皇家」になった話をしましたが、ある時期に、この子孫の一人が、「初代天照(アマテル)」を名乗ったそうです。
この頃から、「天皇」という称号が生まれたそうです。
念のために書いておきますが、この天皇は、古事記などに登場する、「アマテラス」とは別人で、意味も違うそうです。
「古事記」は、後の天皇などが、かなり歴史を湾曲して書いているそうです。
しかし、私が、いろいろ調べたところでは、まったく関係ないわけでもなく、こういう名前が似ている人物やグループなどは、同じ魂の仲間だと思っています。
このグループは、ある期間、現在の三重県いなべ市のあたりを、拠点にしていたようです。
去年、いなべ市も、友人とドライブしました。
現在は、静かな風景が広がっていますが、ある時期は、ここにも、「邪馬台国」の首都があったそうです。
さて、「初代天照(アマテル)」の時代から、何百万年も経った後、新しい時代が始まったそうです。
その時代は、それまでの平和な時代ではなく、動乱の時代になったようです。
きっかけは、大和地方に、「神武天皇」がやってきたのが、始まりだったようです。
この天皇のグループは、権力志向だったようです。
何度か書いているように、「神武天皇」は、シュメール文明の神様の中では、「アヌ王」の生まれ変わりだと、私は思っています。
ここでは、「38人の子供」の子孫を、仮に、「天照派」と呼ぶことにします。
このグループは、「平和」が何よりも大切だと思っていて、「自由」や「知恵」、それから、「愛」のグループだったと思います。
そして、後から、日本の歴史に登場した「神武天皇」が、「アヌ王」で、「平等」を大切だと思っている神様だったようです。
さらに、「力」の崇拝者でもあったようです。
権力によって、人々を、平等に統治するという考え方ですね。
これらの推測は、私個人の感覚的なもので、科学的な根拠があるわけではありありません。
わかりやすくまとめます。
〇「天照派」=「イザナギ」と「イザナミ」
「自由」、「知恵」、「愛」のグループ
〇「神武派」=「神武天皇」
「平等」、「力」のグループ
私は、どのグループがいいとか、悪いとかの判断は、やらないほうがいいというスタンスです。
国政というのは、世の中の状況によって、穏やかに統治したほうがいいこともあれば、多少は荒っぽく、人々を弾圧しなくては、治まらない時もあるからです。
この二つのグループを、さらに、わかりやすく表現すると、
〇「天照派」=「理想主義」
〇「神武派」=「現実主義」
こうなると思います。
現在の日本でも、これは、引き継がれていて、目まぐしく変化する国際情勢の中で、常に、「理想」と「現実」の問題で、政治は論争されますね。
具体的には、「平和憲法」と「自衛隊」の問題なのです。
これも、いろいろな見方ができるので、
「どの意見が正しいか?」
というのは、とても難しい問題なのです。
私が面白いと思ったのは、前述したように、「天照派」の人々は、古事記の「天照大神」とは、直接は関係ないと思いますが、やはり、性格が似ているのです。
つまり、このグループは、
「絶対に戦わない」
という共通の姿勢があるのです。
古事記には、「アマテラス」が、弟の「スサノヲ」の乱暴ぶりに、腹を立てる場面がありますが、その怒り方が、ユニークなのです。
ご存知のように、天岩戸に隠れるのです。
要するに、「引きこもった」ということです。
本来の日本人の怒りの表現は、これなのです。
たとえば、江戸時代なども、「鎖国」をやっていますが、あれは、当時の日本人たちが、西洋人たちが、「大航海時代」などと言って、世界中を植民地化して、残酷で酷い行いをしているのを見て、怒ったのだと思います。
「あんな野蛮な人たちとは、お付き合いできません」
こう思って、国内に引きこもったのが、あの時代だったのだと思います。
おそらく、現代の日本でも、「ニート」や「引きこもり」をやっている若者は、世の中に対して、怒っているのだと思います。
生粋の日本人の怒りの表現は、「引きこもる」のです。(笑)
それに対して、「神武派」は怒ると、相手を殺したり、殴ったり、怒鳴ったり、場合によっては、戦争をしたりします。
怒りの表現の仕方が、ストレートで、わかりやすいのです。
この視点から見ると、現在の日本人にも、「天照派」と「神武派」の二つのタイプの日本人がいるような気がします。
現代の日本の社会では、やはり、「天皇家」は、「天照派」だと思います。
そして、「内閣」に代表されるような政治家たちは、「神武派」が多いような気がします。
私は、完全に、「天照派」ですね。
あなたは、どのタイプですか?(笑)
「天照派」の話を続けます。
ツインレイとして、丹後半島に生まれ、38名の子供を産んで育てた二人は、「初代」の「イザナギ&イザナミ」です。
それから、1500代も、この系統は、続いたそうです。
そして、最後である、1500代目の「イザナギ&イザナミ」の子供が、「天照派」の初代になる、「天照天皇(アマテルカミ尊)」という男性だったそうです。
繰り返しますが、「古事記」の話とは、別の話です。
もう少し、「天皇家」の始祖である、「天照派」のグループの話を書きますね。
古事記の「天照大神」に代表されるように、生粋の日本人というのは、本来、争ったり、喧嘩したりすることが、とても苦手な民族みたいです。
とても愛に満ちていて、平和が好きな民族なのです。
何かに腹を立てて、怒っても、相手に仕返ししたり、怒鳴ったりせずに、静かに、その場を立ち去ったり、無言になったり、無視するという態度をとります。
本当に頭にきた時も、天岩戸に隠れるように、「引きこもる」という行動で、抗議するのです。
何かに対する怒りが、頂点に達しても、頭にきた相手を、殺すのではなく、その怒りを、自分に向けたりして、自殺という抗議行動を選択する人も多いのです。
現代の日本において、多くの人々、特に感性が豊かで、敏感な若者たちが、引きこもったり、ニートになったり、登校拒否や出社拒否、それから、すぐに職場を辞めて、転職を繰り返したりするのも、静かな怒りの表現なのだと思います。
社会に対して、無言の抗議をしているのです。
ストレートな感情表現に慣れている大人たちは、これらの行動が、わかりません。
「どうして、学校に来なくなったんだろう?」
「どうして、入社したばかりの会社を、すぐに辞めたりするんだろう?」
「どうして、いつまでも親元にいて、社会に出て働かないんだろう?」
こう思っていると思います。
これが、彼らの怒りの表現の仕方なのです。
口に出して、反論したり、抗議したりしないのです。
「静かな怒り」
なのです。
これは、政府に対してもそうです。
あまりにも酷い政治をしても、生粋の日本人の多くは、大規模なデモなどの行動はしません。
ただ単に、
「投票に行かない」
という無言の抗議行動をします。
引きこもってしましまった人々が、世の中に出てくるようにするには、怒ってもダメだし、なだめたり、おだててもダメです。
「天照大神」を、天岩戸から出そうと思ったら、皆で、裸踊りをするくらいの宴会を、やらなくてはいけないのです。
つまり、
「ワクワクすること」
これが、世の中に、たくさん出てきた時に、引きこもっている人たちも、隙間から、外の世界を覗きこみ、岩戸から出たくなるのです。
「世の中は面白い! ワクワクすることで溢れている!」
私の旅行記は、一貫して、そう主張しているのです。
だから、天岩戸の中に、引きこもっているような人たちに、特に読んでいただきたいのです。
「神武派」に代表される、「武闘派」、それから、「天照派」に代表される、「穏健派」、古代の日本には、この二つのグループが、存在していたようです。
「神武派」は、「天武天皇」などのように、名前に、「武」が入っている天皇が、多かったみたいです。
文字通り、イケイケの武闘派が多かったようです。
このグループは、前述したように、「イザナギ」と「イザナミ」の「38人の子供」の直系の子孫である、穏健派の「天照派」を、弾圧していたようです。
「天照派」は、三重県いなべ市が拠点だったようですが、ここには、重要な神社が、二つあります。
二つ目は、ここです。
ここから、すぐ近くに、「鴨神社」という神社もあります。
ここは、京都の「下鴨神社(賀茂御祖神社)」の元の神社だそうです。
「鴨神社」=「元・下鴨神社」
だそうです。
「イザナギ」と「イザナミ」の38人の子供の長男と長女の名前、「別雷尊」と「玉依姫」の名前がありますね。
拝殿で参拝しました。
余談です。
去年、奈良県の吉野に行った時に、「吉野神宮」に行ったら、「後醍醐天皇」が、祭神として祭られていました。
あとで、調べてみると、最終的には、
「奈良」=「天照派」=「南朝」
「京都」=「神武派」=「北朝」
こうなったそうです。
そして、奈良を拠点にした、「天照派」が、リーダーとして選んだ天皇が、「後醍醐天皇」だったそうです。
「北朝」と「南朝」には、いろいろな複雑な流れがありますが、その根底には、この二つのグループがあったということが、わかって、納得しました。
歴史に登場する、「聖徳太子」や「空海」などは、この二つのグループの狭間で、苦しみながらも、「天照派」のグループをこっそりと助けていたようです。
「空海」は、うまく助けていたようです。
「天照派」の一部を、四国に逃がして、四国八十ハ箇所に、見張り番を置き、「神武派」から匿っていたそうです。
徳島県美馬市にある、「神明神社」です。
正式には、「磐境神明神社」 というそうです。
ここで、「天照派」の一部は、匿われていたそうです。
「いなべ」という土地から逃げてきた一族だったので、ここでは、「忌部(いんべ)」と呼ばれていたそうです。
「忌部(いんべ)」という一族も、これから先の旅行記で、大切なキーワードになってくるので、おぼえておいてくださいね。
神殿が、独特な形をしています。
一方で、「聖徳太子」は、死後に、「天照派」を助けていたことが、「神武派」に、バレてしまい、法隆寺を焼かれたり、子孫を殺されたりしたそうです。
「天照派」の子孫たちは、その後、日本史の中で、途中から入ってきた外来の宗教である、「仏教」を隠れ蓑に活用したようです。
たくさんの人々が、僧侶になり、お寺に身を隠していたようです。
さて、ここで、これらの歴史を、さらに突っ込んで考えてみましょう。
こういう話を知ると、なんとなく、「神武派」が、極悪非道の存在に感じますが、物事には、いろいろな解釈ができます。
もしも、日本の国土に、穏やかなグループである、「天照派」だけが、住んでいたら、その後の大陸からやってきた、「元寇」などの襲来には、とても対抗できなかったと思います。
「神武派」は、まだ、弾圧したりしただけですが、もしも、「元」の軍隊が、日本を支配していたら、「天照派」は、拷問さたり、虐殺されていたかもしれません。
日本にも、「神武派」のような武闘派は、必要だったのです。
「ドラえもん」という漫画に、「ジャイアン」というガキ大将が出てきますが、たまに、隣町の不良グループがやってきたら、彼が、率先して、その不良グループから、「のび太」などの町のメンバーを、守ったりするシーンが出てきます。
「蛇の道は蛇」
「毒を以て毒を制す」
こういう諺もありますね。
「悪」に対抗できるのは、やはり、「悪」なのです。
だから、私の中では、
「神武派」=「ジャイアン」
「天照派」=「のび太」
こういう解釈になっています。(笑)
大学時代、心理学の教授から、面白い話を聴きました。
その教授が言っていました。
「人間というのは、競争をすればするほど、賢くなるし、強くなる。しかし、同時に、自分さえよければいいという、利己主義になり、人格が悪くなる。嫌な人間になるのです。一方、競争を全くやらないと、誰にでも好かれるような、愛情深い人格になりやすいです。いい人になるのです。しかし、同時に、いつまでたっても、賢くもならないし、強くもなれないのです」
「競争」と「知能」と「人格」は、こういう関係にあるということでした。
つまり、「神武派」は、競争が好きで、どんどん、賢く強くなって、権力を握ったいったグループだったのだと思います。
一方の「天照派」は、競争が嫌いで、ひたすら、皆と楽しく、幸せに暮らすことに、主眼を置いたグループだったのだと思います。
どちらも偏っていたのです。
英語の「ライバル」という単語は、「川」を意味する「リバー」と、語源的に似ているという話を、ある本で読んだことがあります。
つまり、人間というのは、大昔から、よく、川を挟んで、「A」という村と「B」という村に、分かれたのです。
その川を境にして、村や町が生まれて、お互いに、土地や農作物などの問題で争うことが、多かったのです。
「ライバル」という単語が、それほど、悪いニュアンスだけではないことからも、わかるように、こういう争いによって、お互いに、切磋琢磨して、文明を向上させてきた面もあります。
日本風にいうと、「好敵手」ですね。
お互いに、戦争することもあれば、協力して、お祭りをしたり、いろいろと複雑な人間模様が、多く生まれたのが、「川沿い」という土地なのです。
「競争」という行為自体は、中立なのです。
それが、ネガティブに表現されたものが、「戦争」であり、ポジティブに表現されたものが、「祭り」であったり、「オリンピック」などのスポーツの祭典だったりするのです。
ここからは、私の想像ですが、おそらく、「神武派」が、あまりにも酷い弾圧をしたので、さすがの「天照派」も、いろいろな対抗策を考えたと思います。
それは、時に、「働かない」というストライキだったり、究極の抗議行動として、「自害する」という人々も、たくさんでてきたのかもしれません。
考えてみれば、わかりますが、人々の上に立ち、威張りたい権力志向の人々も、下の人々がいるから、威張ることができるのです。
下の人々が、奴隷のように働いてくれないと、豊かな生活はできないのです。
そこで、ある時期に、
「まあまあ、そんなに怒るなよ。仲直りしようぜ。! そうだ! 一緒に、お祭りでもやらないか?」
「神武派」のグループが、「天照派」のグループに、こうやって、下手に出るという懐柔策を、提案したことがあったそうです。
そこで、「神武派」が、真っ先にやったのが、京都の町に、「賀毛神社」を真似て、「上賀茂神社」という神社を建てたそうです。
「盛砂」とも言うそうです。
「立つ」とは、「神様の出現」に由来する言葉らしいですね。
あとで知ったのですが、この二つのピラミッドは、「天照派」と「神武派」の二つのグループを表現しているそうです。
☆精神世界の面白いサイトが、たくさんあります。
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