続きの話です。
「天照派」は、奈良県の吉野も、重要な拠点だったようです。
時間を巻き戻しますね。
「イザナギ(伊弉諾尊)」が、童子の頃、吉野において、「青根ヶ峰」という山にも立ち寄ったそうです。
吉野の山々です。
その時に、宇宙から、自分が誕生した時のことを、鮮明に思い出したのだそうです。
宇宙の源の世界では、「植物」と「動物」と「人間」が、完璧なバランスを保ちながら、美しく回転していたそうです。
それを思い出した、「イザナギ」は、その山の頂上にあった三つの石を、横に並べて、「宇宙の根源」の世界を、忘れないように、そして、後世の子孫たちも、この真理を伝えようとしたのだそうです。
「植物の石」-「動物の石」-「人間の石」
こんなかんじで、山頂に置いたそうです。
これが、後に、「三つの霊石」と呼ばれるようになったそうです。
それを、「丹生家十八家」が、守っていたのです。
「三つの霊石」を、何百万年にも渡って、守護されてきたそうです。
十八の家が、20年交代で見張っていたそうです。
今でも、「伊勢神宮」は、20年ごとに、「式年遷宮」をやりますが、これは、その時からの慣習を、引き継いでいるのだそうです。
「三つの霊石」を守るために、「丹生家」がつくった拠点が、「吉野」という村の始まりだったそうです。
このように、「丹生家」は、心のやさしい人々なのですが、魂の芯の部分はとても強く、絶対的に正しいと信じたことは、永遠にやり続けるという超頑固な気質も、もっているのです。
「青根ヶ峰」にある、「金峯神社」です。
「天武天皇」の時代には、「丹生家」のリーダーは、葛城族である、「役小角(えんのおづぬ)」だったそうです。
当時の「天武天皇」のグループは、「神武派」だったようです。
だから、「天照派」のことは、よく思っていなかったようなのです。
「役小角」は、「天武天皇」のグループから、
「直ちに、あの頂上にある三つの霊石を、壊して捨てなさい!」
と命令されたそうです。
しかし、
「人祖である、イザナギの命令にしか、私は従いません」
こう言って、断固として、命令を拒否したそうです。
だから、島流しにされたのです。
昔から、「役小角」が、当時の権力者から迫害されて、島流しにされた話は知っていましたが、理由がわかりませんでした。
そういうことだったのですね。
まあ、「役小角」は、空を飛ぶこともできたので、島流しにされても、ちっとも困らなかったという裏話もあるそうです。(笑)
「役小角」は、人祖であり、自分の祖先でもあった、若い頃の「イザナギ」の姿を、桜の木を使って、木彫りの仏像を作ったそうです。
それが、「蔵王権現」だそうです。
現在、吉野の「蔵王堂」に置かれています。
そして、この頃から、多くの人々が、吉野の里に、桜の木を植えるようになり、現在の桜並木の土地になったのだそうです。
去年、「蔵王堂」にも、立ち寄りました。
残念ながら、「蔵王権現」の仏像は、見られませんでした。
これも、たまに行われる御開帳の時だけ、本物を見ることができるそうです。
これは、別の人が彫った仏像だと思いますが、全ての「蔵王権現」の仏像にも、共通しているのは、片足で立っていることです。
最初は、意味がわからなかったのですが、後姿の仏像を見て、わかりました。
ハイ!
下半身がヘビの形なのです!
「エンキ」ですね~!
「片足で立っている」のではなく、「下半身がヘビ」だったということです。
「宇賀神」でも、あったということです。
もしかしたら、当時の人々は、素の姿の「イザナギ」の後ろ姿を見て、
「片足で立っている」
と思ったのかもしれません。
このことからも、シュメール文明の神様である、「エンキ」、それから、日本の「イザナギ」が、同じ神様だったことがわかりますね。
実は、「三つ霊石」は、現在も、ひっそりと隠されて置かれているのです。
吉野にある、「水分神社」の目の前、歩いてすぐの所に、名前も書かれていない、無名の神社があります。
この無名の神社の裏に、宝物が隠れていました。
「人丸塚」と書かれていますが、本来は、
「人生塚」
だったそうです。
「人が生まれた塚」
という意味です。
「植物」-「動物」-「人間」
この根源を表現している、「三つの霊石」です。
「三つの石」も、これから、大切なキーワードになるので、おぼえておいてくださいね。
さて、前回、書いたように、「神武派」と「天照派」が、京都の「葵祭」をキッカケに、急速に仲直りをしたのですが、しかし、いつの時代でも、どこの国でも、気が強い子供と気が弱い子供が、一緒に遊んだら、気が弱い方の子供は、毎回、ナメられて、イジメられ、不愉快な思いをするというのは、普遍の事実だと思います。
おそらく、穏健派の「天照派」の人々は、武闘派の「神武派」から、いろいろな圧力によって、精神的にも、肉体的にも、とても不自由な思いをしていたと思います。
そして、西日本を中心に、囲い込まれているような形になり、逃げ場のない状況で、閉塞状態になっていたと思います。
陸地は、おそらく、関所みたいな場所があり、要所には、見張りがいたと思います。
当時の東日本は、とても不便な場所だったし、大きな船を建造して、外国に逃げようと思っても、それもできなかったと思います。
「神武派」の天皇だった、「天武天皇」は、特に酷い弾圧をして、「天照派」の人々には、
「土地をもってはいけない。職業についてもいけない。他の部族と結婚してもいけない」
こういう法律をつくり、乞食の立場に、追いやったそうです。
それで、仕方なく、お寺のお坊さんになって、そこで、質素な生活を始めた人々も、多かったようです。
「イザナギ」と「イザナミ」の38人の子供の子孫たちは、そうやって、虐げられた状況の中、心の優しい、何人かの権力者たちに助けられながら、少しづつ、移動していったようです。
特に、前述の奈良県の吉野から、和歌山県の熊野の奥地に、逃げていたようです。
正真正銘の本当の天皇家が、「大丹生(おおにゅう)」と呼ばれていた話を書きましたね。
彼らが、隠れて住んでいた場所には、だいたい、「鬼伝説」があります。
「この土地には、恐ろしい鬼がいるから、近づくな!」
こういう伝説をつくって、一般の人たちを、遠ざけて、身を守っていたのです。
「大丹生(おおにゅう)」=「鬼(おに)」
だということです。
京都府福知山市の大江町にある、「鬼」の像です。
「熊野」にも、たくさんの「鬼伝説」がありますね。
「橋杭岩」です。
日本には、いくつかの「鬼伝説」の場所があり、そういう土地は、たいてい、「大丹生家」が、ひっそりと住んでいた場所です。
普通は、節分で、
「鬼は~外! 福は~内!」
と叫びながら、豆をまきますが、「大丹生家」が、住んでいた場所では、
「鬼は~内! 福も~内!」
と叫んだりします。
「熊野」を旅していて感じたのは、「王子」という名前がつく神社が、たくさんあるということです。
一般的には、「王子」とは、「熊野権現の御子神」だと、考えられているようです。
また、熊野の神々のことを、「熊野権現」と呼ぶそうです。
「権現」とは字義的には、「仮に現われた」ということで、何が仮に現われたのかというと、それは、「仏」なのだそうです。
私の解釈では、この場合、正確には、「イザナギ」と「イザナミ」の子孫である、38人の子供の子孫のことが、「仏」という意味なのだと思います。
昔から、不思議だったのですが、そもそも、どうして、「熊野」というのでしょうか?
この土地に、たくさんの「熊」が生息している「野山」というわけでも、なさそうです。
調べると、元々は、「熊」という文字は、「畏」だったそうです。
「畏れ多い」
という表現で使いますね。
つまり、「熊野」という土地は、「畏の」という意味で、
「畏れ多い神々の住む聖地」
という意味だそうです。
納得ですね。
おそらく、「熊本」や「熊襲」も、そうだと思います。
さて、「王子神社」というのは、大阪あたりから始まり、和歌山県の熊野まで、北から南に、広く分布しています。
それらは、総称して、「熊野九十九王子(くまのくじゅうくおうじ)」と呼ばれていたそうです。
一般的には、「九十九」というのは実際の数ではなく、「数が多い」という意味で使われることが多いですね。
しかし、、実際、最盛期には、99ヵ所くらいの「王子」と呼ばれる土地があったそうです。
各王子では、奉幣(幣を奉る)と経供養(般若心経などを読む)などの儀式が行われて、里神楽や馴子舞、和歌会などの奉納が行なわれることもあったそうです。
ここからは、私の想像です。
おそらく、このエリアには、38人の子孫の末裔がいたのだと思います。
そして、99人の王子、つまり、天皇家のリーダーが、99人住んでいたのだと思います。
99のグループに、分かれていたのだと思います。
しかし、よくよく考えてみてば、面白い話です。
歴史上、いつの時代も、どこの国でも、「王様」は、一人だけです。
そして、「王子様」も、数人くらいしかいなくて、「王様」の椅子を狙って、王子様同士で、喧嘩したり、戦争することになると、だいだい決まっています。
また、「王子」という単語も、日本的ではありません。
中国などの大陸での称号ですね。
おそらく、「天照派」の人々は、絶対平和主義だったから、そもそも、争わなかったのだと思います。
そして、「王座を狙う」などという椅子取りゲームにも、興味がなかったのだと思います。
99人も王子様がいたのならば、それから先の時代に、少なくする方向ではなかったと思います。
もっと、もっと多くしようと思っていたと思います。
最終的には、99人どころか、999人、9999人、99999人…
こんなかんじで、日本全国、全ての人々が、「王子」の身分になるような国家を目指したのではないでしょうか?
つまり、現代の「国民主権」や「民主主義」を、この時代に、思い描いていたのではないでしょうか?
そして、そんな彼らが、夢を見て、最初に、実現させたのが、天下泰平だった、「江戸時代」だったのではないでしょうか?
現代は、いつでも美味しいものが、食べれれて、皆が、飛行機や新幹線で、いろいろなところに、旅行に行けますね。
まさに、「国民皆王子」の時代ですね。
この時代に、未来の「民主主義」を思い描いた、99人の王子たちのことを、イメージしていたら、目から涙が出てきました。
私が、いろいろ調べた限りでは、どうやら、99番目の「浜の宮王子」という場所が、最重要だったようです。
絶対平和主義で、他人への攻撃ができないために、弾圧されたり、冷や飯を食わされていた、「天照派」の人々は、西日本で、閉塞状態になっていたようです。
陸地から、東日本を目指そうと思っても、要所には、関所のようなものがあり、見張り番がいたと思います。
そもそも、仮に、東日本に行っても、荒れた僻地だったので、行っても、そこでは、過酷な生活が待っていることは、明白だったと思います。
それでも、西日本に住んでいても、これから先、永遠に苦しい生活が続くのは、目に見えていました。
「よし! 凄い冒険になるかもしれないけど、東日本に移住して、新しい土地で、新しい時代を築いていこう!」
ある時、こう決意したのだと思います。
海から、東日本を目指そうと思っても、そんなに遠くまで行こうと思ったら、大きな船を造船しないといけなし、そんな技術もお金もなかったので、途方に暮れていたようです。
そんなとき、一人の救世主が現れます。
「聖徳太子」
この人物が、助けたのです。
聖徳太子の登場で、日本史の中で、最高にスリリングなドラマが、始まったのです。
救世主というのは、「天照派にとっての救世主」という意味です。
私は、「聖徳太子=キリスト説」を、主張していますが、まさに、日本においては、聖徳太子が出現する前と後では、西洋での「紀元前(B.C)」と「紀元後(A.D)」に分かれるくらいの時代の大変化だったのです。
聖徳太子というのは、この大プロジェクトを実行するために、日本に誕生したのだと思います。
彼らにとっては、「西日本」は、まるで、監獄にいるように、不自由な土地でした。
そこで、新天地の「東日本」への脱出を試みたのです。
よいよ、ここから、「プリズンブレイク」の古代日本版が、始まったのです!
「熊野権現神社」の神社の隣に、日本史における、最重要な寺があります。
「補陀落山寺」という小さなお寺です。
「世界遺産」でもある重要な場所です。
本堂の前で、記念撮影しました。
この記念碑の前でも、記念撮影しました。
本堂の中には、ご本尊の仏像もありました。
これは、42本の手を持つ仏像ですが、意味は、正面の4本の腕が、「イザナギ」と「イザナミ」の腕で、残りの38本が、38人の子供の腕を意味しているそうです。
「補陀洛山寺」は「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の出発点だったことで、知られているそうです。
私は、この渡海のことは、全く知りませんでした。
今年になってから、あるキッカケで知ったのです。
ネットで調べると、こういう説明が出てきます。
「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある、観音菩薩の住まう浄土のことをいい、「華厳経」には、インドの南端にあると、説かれているそうです。
「観音信仰」の流布とともに、チベットや中国にも、「補陀落」は、想定されたようです。
チベットでは、ラサ北西に建つ、観音の化身、「ダライラマ」の宮殿を、「ポタラ(補陀落)宮」と呼び、中国では舟山諸島の2つの島を、「補陀落」としたようです。
日本においては、南の海の果てに、「補陀落浄土」はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して、船出することを「補陀落渡海」と言ったそうです。
そして、この信仰を広げたのが、前述した、聖徳太子だったのです。
日本国内の補陀落の霊場としては、那智の他に、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などがあったそうです。
記録に残された40件ほどの補陀落渡海のうち、半数以上が、この熊野那智で行われています。
熊野は、補陀落渡海の根本道場といってもよい場所だったようです。
聖徳太子の時代から、江戸時時代まで、これは、行われていたそうです。
チベットの「ポタラ宮殿」とも関係してたのですね。
そういえば、チベットも絶対平和主義の人たちが多く、そのために、迫害されていますね。
日本の「天照派」と、同じルーツだと思います。
この「ポタラ宮殿」の地下は、地底王国の「チャンバラ」があると言われていますね。
もしかしたら、熊野の「99人の王子」の意味は、この王国の王子という意味だったかもしれません。
「補陀落山寺」の本堂の中には、当時の様子を描いた絵もありました。
ネットで調べると、こういう説明が出てきます。
那智の浜からは、25人の観音の信者が、補陀落を目指して、船出したと伝えられています。
補陀洛山寺境内にある石碑に、それらの人々の名が、刻まれています。
平安前期の貞観十年(868)の慶龍上人から、江戸中期の亨保七年(1722)の宥照(ゆうしょう)上人まで25人。
平安時代に5人、鎌倉時代に1人、室町時代に12人(そのうち11人が戦国時代)、安土桃山時代に1人、江戸時代に6人。
補陀落渡海の多くは11月、北風が吹く日の夕刻に、行われたそうです。
渡海僧は当日、本尊の千手観音の前で、読経などの修法を行い、続いて隣の三所権現を拝し、それから船に乗りこんだとも伝わっています。
渡海僧は、30日分の食料と灯火のための油を載せて、小さな屋形船に、乗りこんだそうです。
説明は、さらに、このように続きます。
渡海僧が、船の屋形のなかに入りこむと、出て来られないように、扉には、外から釘が、打ちつけられたそうです。
渡海船は、白綱で繋がれた伴船とともに、沖の綱切島あたりまで行くと、綱を切られ、あとは波間を漂い、風に流され、いずれ沈んでいったものと思われる。
渡海僧は、船が沈むまでの間、密閉された暗く狭い空間のなかで、かすかな灯火を頼りに、ただひたすらお経を読み、死後、観音浄土に生まれ変わることを願い、そして、船は沈み、入水往生を遂げたのでしょう。
船のしつらえや渡海の方法などは、時代により異なるのでしょうが、補陀落渡海とは、いわば生きながらの水葬であり、自らの心身、を南海にて観音に捧げる、捨身行だったのでした。
こう書かれています。
これが、一般的な認識です。
境内には、この石碑がありました。
名前もありました。
記録に残っているだけの名前です。
実際には、もっと多くの人が、この渡海をやっていたと思います。
渡海僧が乗りこんだ船を、復元したものが、境内にある建物のなかに、展示されています。
奇妙な形をした小さな船です。
船の上には屋形が、作られています。
その屋形の前後左右を、4つの鳥居が囲んでいます。
人が、一人だけ入ることができる、テントのような小屋がありました。
前述したように、ここに、僧侶が一人だけ入り、外からは、釘が打たれ、中から出られないようにしていたそうです。
もちろん、現在のようなスクリューなどはなく、櫂も帆もなかったそうです。
だから、一度、海に出たら、クラゲのように、ただ漂うだけだったのです。
舟が出る時には、この旗を掲げたそうです。
「76の音」を意味する、「南無」が入っていますね。
寺の裏山には、亡くなったとされる僧侶の墓が、ありました。
数えると、19でした。
19組の夫婦、つまり、38人の数ですね。
ここからが、いよいよ本番です!
「補陀落渡海」は、このように、昔も現在も、狂信的でカルトっぽい儀式だったと、世間一般では思われています。
しかし、よく考えてください。
こういう、「即身成仏」の行為をやる意味は、何なのでしょうか?
ましては、何のために、わざわざ、海の彼方に行って、死ぬ必要があったのでしょうか?
ただ死ぬだけのために、これをやっていたとしたら、ただの馬鹿だと思います。
勘の良い方は、もうわかりましたね。
そうです。
「西日本」から「東日本」への脱出が、真の目的だったのです!
「空と海の彼方の極楽浄土へ行くために、舟に乗って、太平洋の彼方に行き、そのまま、沈没して、海の藻屑となり、即身成仏する」
というのは、「神武派」たちのグループの目を、ごまかすための偽りの儀式だったのです!
本当のことは、隠されていました。
実際には、こうだったようです。
途中まで、付き添いの数隻の舟が、綱を引っ張り、途中の小島から、突き放したようです。
「よ~し! 行ってこ~い!」
こう叫んだかどうかは、わかりませんが、沖の向こうまで、その小舟を流したそうです。
すると、浜辺から4キロくらいの所に、当時から、「黒潮」が流れていたのです。
そして、うまく、「黒潮」の乗れば、それは、大きな河のような流れで、「東日本」まで、運んでくれたのです。
ちなみに、黒潮の最大流速は、最大で4ノット(約7.4km/h)にもなり、軽くジョギングしているくらいのスピードなので、1週間以内では、確実に、「東日本」にある、どこかの浜に漂着したと思います。
そして、当時から、忍者のような存在たちがいて、秘密裏に、いろいろな手配をして、「東日本」の浜に漂着したら、事前に、その場所に着いていた人々が、打たれていた釘を外し、中から、その僧侶を助けたのだと思います。
そして、その背後で、この秘密の脱出劇を、計画して動かしていたのが、「聖徳太子」のグループだったというわけです。
黒潮です。
面白いのは、東から西に流れる潮の流れもあり、一人だけ、当時の琉球に流れ着いたお坊さんもいたそうです。
日秀上人という僧が、理由はわかりませんが、逆の流れの潮流に乗り、琉球に着き、補陀落浄土からやってきた僧として、琉球王にも珍重され、金武町に、「観音寺」を建立したそうです。
その後、沖縄に、30年滞在した後、薩摩に移ったそうです。
沖縄には、昔から、
「水平線の先、空と海の交わる先に、極楽浄土がある」
という、「ニライカナイ」という信仰がありますが、もしかしたら、この「補陀落渡海」とも関係あるかもしれません。
そういえば、沖縄の人たちも、「平和主義」の人が多いですね。
「天照派」のDNAが多い民族かもしれませんね。
そして、もしかしたら、この「空と海の交わる先の極楽浄土」から、派遣された使者が、「空海」だったのかもしれません。
和歌山県の那智では、「中の島ホテル」という所に、泊まりました。
美味しい食事に、素晴らしい露天風呂で、最高でした。
朝、モーニングを食べた後、島の頂上まで、散歩しました。
すると、東の空から、朝日が昇ってきました。
この朝日を見ながら、
「ああ…、この景色を見ながら、天照派の人たちが、僧侶の姿で、新天地を目指し、小舟で黒潮に乗って、東日本を目指したんだな…、ここが、新しい日本を新生しようと決意したパイオニアたちの聖地なんだな…」
こう思ったら、大感動して、また、目から涙が出てきました。
次回に続きます。
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