絶対平和主義で、他人への攻撃ができないために、弾圧されたり、冷や飯を食わされていた、「天照派」の人々は、西日本で、閉塞状態になっていたようです。
陸地から、東日本を目指そうと思っても、要所には、関所のようなものがあり、見張り番がいたと思います。
そもそも、仮に、東日本に行っても、荒れた僻地だったので、行っても、そこでは、過酷な生活が待っていることは、明白だったと思います。
それでも、西日本に住んでいても、これから先、永遠に苦しい生活が続くのは、目に見えていました。
「よし! 凄い冒険になるかもしれないけど、東日本に移住して、新しい土地で、新しい時代を築いていこう!」
ある時、こう決意したのだと思います。
海から、東日本を目指そうと思っても、そんなに遠くまで行こうと思ったら、大きな船を造船しないといけなし、そんな技術もお金もなかったので、途方に暮れていたようです。
そんなとき、一人の救世主が現れます。
「聖徳太子」
この人物が、助けたのです。
聖徳太子の登場で、日本史の中で、最高にスリリングなドラマが、始まったのです。
救世主というのは、「天照派にとっての救世主」という意味です。
私は、「聖徳太子=キリスト説」を、主張していますが、まさに、日本においては、聖徳太子が出現する前と後では、西洋での「紀元前(B.C)」と「紀元後(A.D)」に分かれるくらいの時代の大変化だったのです。
聖徳太子というのは、この大プロジェクトを実行するために、日本に誕生したのだと思います。
彼らにとっては、「西日本」は、まるで、監獄にいるように、不自由な土地でした。
そこで、新天地の「東日本」への脱出を試みたのです。
いよいよ、ここから、「プリズンブレイク」の古代日本版が、始まったのです!
前回紹介した、「熊野権現神社」の神社の隣に、日本史における、最重要な寺があります。
「補陀落山寺」という小さなお寺です。
「世界遺産」でもある重要な場所です。
本堂の前で、記念撮影しました。
「補陀洛山寺」は「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の出発点だったことで、知られているそうです。
私は、この渡海のことは、全く知りませんでした。
ネットで調べると、こういう説明が出てきます。
「補陀落(ふだらく)」とはサンスクリット語の「ポータラカ(Potalaka)」の音訳で、南方の彼方にある、観音菩薩の降臨する霊場であり、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山である。
その山の形状は、八角形であるという。
インドの南端にあるとの説から、その土地は、スリランカだという説もあった。
観音信仰とともに、チベットや中国にも、「補陀落」は、想定されたようです。
チベットでは、ラサ北西に建つ、観音の化身、「ダライラマ」の宮殿を、「ポタラ(補陀落)宮」と呼び、中国では舟山諸島の2つの島を、「補陀落」としたようです。
日本においては、南の海の果てに、「補陀落浄土」はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して、船出することを「補陀落渡海」と言ったそうです。
そして、この信仰を広げたのが、前述した、聖徳太子だったのです。
日本国内の補陀落の霊場としては、那智の他に、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などがあったそうです。
記録に残された40件ほどの補陀落渡海のうち、半数以上が、この熊野那智で行われています。
熊野は、補陀落渡海の根本道場といってもよい場所だったようです。
聖徳太子の時代から、江戸時時代まで、これは、行われていたそうです。
チベットの「ポタラ宮殿」とも関係してたのですね。
そういえば、チベットも絶対平和主義の人たちが多く、そのために、迫害されていますね。
日本の「天照派」と、同じルーツだと思います。
「ポタラ宮殿」の地下は、地底王国の「チャンバラ」があると言われていますね。
「補陀落山寺」の本堂の中には、当時の様子を描いた絵もありました。
ネットで調べると、こういう説明が出てきます。
那智の浜からは、25人の観音の信者が、補陀落を目指して、船出したと伝えられています。
補陀洛山寺境内にある石碑に、それらの人々の名が、刻まれています。
平安前期の貞観十年(868)の慶龍上人から、江戸中期の亨保七年(1722)の宥照(ゆうしょう)上人まで25人。
平安時代に5人、鎌倉時代に1人、室町時代に12人(そのうち11人が戦国時代)、安土桃山時代に1人、江戸時代に6人。
補陀落渡海の多くは11月、北風が吹く日の夕刻に、行われたそうです。
渡海僧は当日、本尊の千手観音の前で、読経などの修法を行い、続いて隣の三所権現を拝し、それから船に乗りこんだとも伝わっています。
渡海僧は、30日分の食料と灯火のための油を載せて、小さな屋形船に、乗りこんだそうです。
説明は、さらに、このように続きます。
渡海僧が、船の屋形のなかに入りこむと、出て来られないように、扉には、外から釘が、打ちつけられたそうです。
渡海船は、白綱で繋がれた伴船とともに、沖の綱切島あたりまで行くと、綱を切られ、あとは波間を漂い、風に流され、いずれ沈んでいったものと思われる。
渡海僧は、船が沈むまでの間、密閉された暗く狭い空間のなかで、かすかな灯火を頼りに、ただひたすらお経を読み、死後、観音浄土に生まれ変わることを願い、そして、船は沈み、入水往生を遂げたのでしょう。
船のしつらえや渡海の方法などは、時代により異なるのでしょうが、補陀落渡海とは、いわば生きながらの水葬であり、自らの心身、を南海にて観音に捧げる、捨身行だったのでした。
こう書かれています。
これが、一般的な認識です。
境内には、この石碑がありました。
名前もありました。
記録に残っているだけの名前です。
実際には、もっと多くの人が、この渡海をやっていたと思います。
渡海僧が乗りこんだ船を、復元したものが、境内にある建物のなかに、展示されています。
奇妙な形をした小さな船です。
船の上には屋形が、作られています。
その屋形の前後左右を、4つの鳥居が囲んでいます。
人が、一人だけ入ることができる、テントのような小屋がありました。
前述したように、ここに、僧侶が一人だけ入り、外からは、釘が打たれ、中から出られないようにしていたそうです。
もちろん、現在のようなスクリューなどはなく、櫂も帆もなかったそうです。
だから、一度、海に出たら、クラゲのように、ただ漂うだけだったのです。
ここからが、いよいよ本番です!
「補陀落渡海」は、このように、昔も現在も、狂信的でカルトっぽい儀式だったと、世間一般では思われています。
しかし、よく考えてください。
こういう、「即身成仏」の行為をやる意味は、何なのでしょうか?
ましては、何のために、わざわざ、海の彼方に行って、死ぬ必要があったのでしょうか?
ただ死ぬだけのために、これをやっていたとしたら、ただの馬鹿だと思います。
勘の良い方は、もうわかりましたね。
そうです。
「西日本」から「東日本」への脱出が、真の目的だったのです!
「空と海の彼方の極楽浄土へ行くために、舟に乗って、太平洋の彼方に行き、そのまま沈没して、海の藻屑となり、即身成仏する」
というのは、「神武派」たちのグループの目を、ごまかすための偽りの儀式だったのです!
本当のことは、隠されていました。
実際には、こうだったようです。
途中まで、付き添いの数隻の舟が、綱を引っ張り、途中の小島から、突き放したようです。
「よ~し! 行ってこ~い!」
こう叫んだかどうかは、わかりませんが、沖の向こうまで、その小舟を流したそうです。
すると、浜辺から4キロくらいの所に、当時から、「黒潮」が流れていたのです。
そして、うまく、「黒潮」の乗れば、それは、大きな河のような流れで、「東日本」まで運んでくれたのです。
ちなみに、黒潮の最大流速は、最大で4ノット(約7.4km/h)にもなり、軽くジョギングしているくらいのスピードなので、1週間以内では、確実に、「東日本」にある、どこかの浜に漂着したと思います。
そして、当時から、忍者のような存在たちがいて、秘密裏に、いろいろな手配をして、「東日本」の浜に漂着したら、事前に、その場所に着いていた人々が、打たれていた釘を外し、中から、その僧侶を助けたのだと思います。
そして、その背後で、この秘密の脱出劇を、計画して動かしていたのが、「聖徳太子」のグループだったというわけです。
面白いのは、東から西に流れる潮の流れもあり、一人だけ、当時の琉球に流れ着いたお坊さんもいたそうです。
この僧については、後ほど詳しく書いていきます。
沖縄には、昔から、
「水平線の先、空と海の交わる先に、極楽浄土がある」
こういう世界観、「ニライカナイ」という信仰があります。
どうやら、「補陀落渡海」とも関係あるようです。
だんだん、この旅行記のメインテーマに近づいてきましたね。
そういえば、沖縄の人たちも、「平和主義」の人が多いですね。
「天照派」のDNAが多い民族かもしれませんね。
そして、もしかしたら、この「空と海の交わる先の極楽浄土」から、派遣された使者が、「空海」だったのかもしれません。
「西日本」 ⇒ 「東日本」
これを繋ぐメインストリートが、海だったというのは、驚きですね。
しかも、大きな船ではなく、「小舟」だったというのも、ビックリです。
私たちは、歴史においては、必ず、「民族大移動」という大人数でのイメージがありますが、それは、大陸の話です。
聖書には、そう書かれていますが、日本では、全く状況が違い、秘密裏に、一人づつ、長い年月をかけての移動だったようです。
その期間、聖徳太子の時代から、江戸時代にかけて、なんと、1000年間くらい続いていたそうです!
これだけの長い年月をかけて、少しづつ、「天照派」の僧侶、つまり、本当の天皇家の一族を、東日本に逃がし、そこで、おそらく、現地の女性と結婚して、子孫を、広げていくという活動を、していたのだと思います。
目的は、「平和」と「愛」の遺伝子を、未来の日本に残すためです。
西から東に移動したパイオニア達のルートは、研究している学者も、ほとんどいないと思います。
もしかしたら、ここまで、突っ込んで調査してまわったのは、私が初めてかもしれません。
まだ、名前も付いていないので、「シルクロード」のように、「黒潮ロード」と名付けようと思います。
この「補陀落渡海」の痕跡は、東日本に、たくさん残っています。
それは、房総半島にも、多く存在しています。
まずは、「西日本」から、「小舟」が辿り着いた場所に、行ってきました。
ここには、
「玉依姫という名前の神様が、陸に上がってきた場所」
という伝説が残っています。
場所は、千葉県の「九十九里浜」です。
もうわかりましたね。
「九十九人の王子のグループが辿り着いた浜」
こういう意味だったのです!
さらに、この「九十九里」という漢字を分解すると、
「九」+「十」+「九」+「十」+「口(くに)」+「土」
となり、意味は、
「三十八の国土」
という意味になります。
着く場所が、どうして、港ではなく、ただのビーチだったのでしょうか?
砂浜だからいいのです。
砂浜だと、大きな船は、接岸できません。
沖に錨を下ろして、小舟で来ることになります。
砂浜という地形は、小舟じゃないと、上陸できないのです。
大きな船が接岸できる港だったら、すぐに、追っ手に見つかってしまいます。
このプロジェクトは、秘密裏の脱出劇だったことを、忘れないでくださいね。
昔、ここで、「天照派」の僧侶が、「小舟」から、仲間によって救助されて、上陸したと思ったら、大感動でした。
「浜鳥居」という名前だそうです。
思い出してください。
和歌山県の「補陀落山寺」の隣にあった神社にあった案内板です。
海水でビショビショに濡れながら、上陸したのだと思います。
「九十九里浜」に上陸した後、僧侶たちは、だいたい、このルートを歩いたようです。
「浜鳥居」→「神洗神社」→「神埼神社」→「玉前神社」
大まかな地図です。
この鳥居から、車で、ちょっと走った所に、「神洗神社」があります。
そこに、「神洗池」という池があります。
真っ先に、ここで、ベトベトに張り付いた海水を洗い流したようです。
それから、「玉崎神社」の辺りで、休憩したようです。
「玉崎神社」の「玉」は、「玉依姫のグループ」だという意味だと思います。
「三つ巴」のマークがありますね。
「天照派」の拠点だった所という証拠です。
房総半島においては、「玉前神社」のあたりに、一旦、落ち着いたグループもいたようです。
拝殿です。
黒色は、珍しいと思います。
いろいろ考えたら、この色は、漆黒の闇、つまり、「宇宙」を表現していると思います。
そう思いながら、拝殿の屋根のあたりを見て、
「うわ~~!!」
と、大声で叫んでしまいました。
「宇宙の源」から、ツインレイである、「イザナギ」と「イザナミ」の魂が、最初は、「繭」のような形から、二つに分かれて、それから、二人の男女になる様子が描かれています。
大感動でした~!
やはり、ここは、「イザナギ」と「イザナミ」の子孫たちの拠点だったのです。
「千葉神社」にも、立ち寄りました。
境内には、「千葉天神」という神様が、祭られていました。
そこで、気が付きました。
「千葉」という文字を見ていたら、「千葉」の「千」という文字の縦線を、横に並べ替えてみたのです。
すると…
「三葉天神」になるではないですか!
わかりましたか?
大ヒットしたアニメ、「君の名は。」の主人公の女の子、「三葉」です。
そして、和歌山県の那智の「補陀落山寺」の近くには、「那智の滝」がありますね。
もう一人の主人公の男の子、「滝君」ですね。
つまり、
「那智の滝」 ⇒ 「千葉」
これが、「黒潮ロード」の暗号だったのです。
「滝君が三葉に会いに行った」
こういう意味になるのです。
アニメ映画の「君の名は。」です。
これも、「イザナギ」と「イザナミ」の二人の話を、現代風に、描き直したのだと思います。
そういえば、このアニメの監督の名前は、「新海」でしたね。
「新天地を目指して、海を越えて行った人々」
この名前には、この意味も入っているかもしれませんね。
これは、全て偶然でしょうか?
いや、違います。
そもそも、
「偶然は神である」
というのが、この世界なのです。
そして、「千葉神社」の神紋です。
これの意味を、いろいろ考えてみたのですが、これは、「太陽」と「月」を表現している意味も、含んでいると思います。
古代史においては、歴史の期間が長いので、その間に、いろいろな出来事があり、意味も、一つではなく、重層的に、複数の意味が重なっていることも、多いのです。
そして、「太陽」と「月」の二つで行われる天体ショーが、「日食」なのです。
「日食」とは、光が闇に隠れて、再び、光出す現象ですね。
ハイ!
「天の岩戸開き」ですね。
「天照派の拠点だった所」
という意味です。
房総半島の南端、館山市には、「那古寺」というお寺があるのですが、ここの山号、つまり、別名が、「補陀落山」なのです。
明らかに、和歌山県の「補陀落山寺」と関係ありますね。
本堂の中は、写真撮影が禁じられているので、写真はないのですが、この本堂の天井には、なんと、下半身がヘビで、上半身が、お爺さんの人形が、飾られていました。
「エンキ=宇賀神=イザナギ」ですね。
このお寺の近く、同じ館山市には、「安房(あわ)神社」もあります。
ここは、三重県の「員弁(いなべ市)」から、四国の「阿波国(あわのくに)」に逃げた、「忌部氏」が、その後、さらに、舟で「黒潮ロード」を利用して、房総半島に、やってきた所だと思います。
この神社の近くには、「忌部塚」という場所もありました。
「忌部氏=天照派」でしたね。
ここにも、痕跡が残っていました。
館山市は、興味深いところが、いろいろあります。
他にも、「海南刀切神社」という神社にも、立ち寄りました。
ここの拝殿には、木彫りの彫刻があり、なんと、珍しく、「天の岩戸開き」が、彫られていました。
「天照派」の土地ですね~!
このように、「房総半島」にも、「天照派」の痕跡は、たくさん残っています。
これらの痕跡を見るたびに、古代において、「補陀落渡海」という脱出劇が、いかに凄かったのかが、わかると思います。
さらに、「補陀落渡海」の痕跡は、関東地方に、たくさん残っています。
最終的には、和歌山県の熊野から渡海したグループは、栃木県の日光のあたりで、落ち着いたようです。
関東においては、「天照派」が、「黒潮ロード」に乗って、小舟で漂着した場所が、
「千葉県」&「茨城県」&「神奈川県」&「東京都」
主に、この4ヵ所だったようです。
それから、「埼玉県」を通って、北関方面の「群馬県」と「栃木県」に向かったのが、大きな流れだったようです。
京都の「丹後」から始まり、関西を経由して、和歌山県の「熊野」から、小舟で、「東日本」を目指した「天照派」のグループの主なルートを、シンプルに書くと、赤線のようなルートになります。
さらに、特筆すべきことがあります。
私は、「補陀落渡海」を調べていて、
「九十九里浜のあたりから、日光まで歩いて移動した時は、大変な道のりだったに違いない」
と思っていたのですが、実際には、小舟で、流れに逆らいながらも、上流へと向かうことができたようです。
もしかしたら、追い風の時には、とても楽に行けたかもしれません。
現在の千葉県銚子市のあたりから、栃木県日光市まで、古代においては、「香取浦」という大きな湾と無数の川があり、なんと、太平洋から、「日光」のあたりまでは、「鬼怒川」を使って、舟で一気に行くことができたようです。
「熊野」 ⇒ 「日光」
この間は、小舟で行けたということです。
1000年前の想像図だそうです。
「補陀落渡海」の僧たちが、後に、「補陀落寺」を建てた場所は、この川沿いが多いですね。
こうやって、地形で推測すると、かなり正確な歴史が、把握できますね。
今年になってから、宇都宮市内をまわっていたら、この神社の名前が、目に飛び込んできました。
「二荒山神社」という名前の神社です。
「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」と発音するそうです。
もうわかりましたね。
「補陀洛山寺(ふだらくさんじ)」=「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」
こうなるのです。
この神社は、和歌山県の「補陀洛山寺」と、完全に繋がっているのです。
つまり、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の「補陀洛山寺」の僧侶たちは、小舟で、「黒潮ロード」を渡って来て、関東の地へ上陸した後、栃木県宇都宮市にある、「二荒山神社」にも、辿り着いたということです。
「熊野 補陀洛山寺」=「宇都宮 二荒山神社」=「日光 二荒山神社」
一説によると、「日光」という名前は、弘法大師空海が、この地を訪れた際に、「二荒」を、「にこう」と読み、「日光」の字を当て、この地の名前にしたとも言われています。
「補陀洛」→「二荒」→「日光」
こうなったそうです。
和歌山県の「補陀落山寺」、それから、栃木県の二つの「二荒山神社」が、見事に繋がりましたね。
☆精神世界の面白いサイトが、たくさんあります。
http://airw.net/newage/rank.cgi?id=atlas
☆キネシオロジーの個人セッションも、やっています。
こちらも、ぜひ体験してくださいね。
http://www.tomaatlas.com/soul.htm