静岡県にも行ってきました。
静岡は、大好きな土地の一つです。
「静かな岡」という名前のとおり、どこに行っても、とても穏やかで、やさしいエネルギーを感じるのです。
ここでは、レンタカーを借りて、まわりました。
ご存知のように、私のモットーが、「行き当たり、バッチリ」なので、いつも、半分くらいは、事前に旅の計画を立てるのですが、残りの半分は、直接現地に着いてから、直観で決めます。
今回の静岡の旅も、気の向くままに、地図を見たり、車で走っている時に、ピン!ときた所で車を停車して、探索したりしました。
「補陀落渡海」に関係ありそうな名前を、気を付けて見ていると、このお寺も目に留まりました。
「海長寺」
という名前です。
場所は、静岡市内で、清水港から歩いてすぐの場所です。
私は、これを見て、
「長い海の航海を経て、辿り着いた場所」
瞬時に、こう解釈しました。
門の前で、記念撮影しました。
何度も書いているように、「天照派」は、大々的には、メッセージを伝えません。
暗号のように、わかる人だけに、わかるように、メッセージを伝えるのが、彼らのやり方なのです。
「龍水山」と書かれていますね。
「水」と「龍」ですね。
「滝」を意味していると思います。
ここでも、アニメ「君の名は。」の「滝君」の登場です。(笑)
「山」は、「領地」という意味もあるから、「滝君の縄張り」という意味ですね。
つまり、「イザナギ」の土地です。
すぐに、「三つ巴」の瓦が目に飛び込んできました。
境内にある建物です。
「圓」の文字が入っていますね。
「員」+「口(くに)」=「三重県の員弁」=「邪馬台国」=「天照派」
こういうことです。
「天照派」の拠点ですね。
左側の絵にも、注目しておいてください。
本堂です。
境内には、大きな「ソテツ(蘇鉄)」がありました。
「ソテツ(蘇鉄)」という名前を調べると、
「枯れかかったときに、鉄クギを打ち込むと、よみがえる」
というのに由来しているそうです。
「鉄を受けると元気になる(蘇鉄)」という伝承から、今でも、茎に、クギを打ち込んだり、根もとに、、釘をばらまいているものも、多いそうです。
まさに、「補陀落渡海」の象徴ではないですか!
「小舟に乗り込み、四方八方から釘を打たれ、鉄の箱のよう閉じ込められ、出られないようにされ、海の彼方で、死ぬことにした。しかし、実際には、その後、黒潮に乗り大海を漂い、遠くの土地の浜辺で、仲間から救助され、新天地で生まれ変わったように蘇り、第二の人生を歩み始めた」
こういうことです。
「ソテツ(蘇鉄)」=「補陀落渡海」
こういう方程式が、今、できました。(笑)
「補陀落渡海」で、小舟が海に流されるシーンです。
場所は、熊野の那智にある、「補陀落山寺」の近くの海岸です。
その場面を、模型や人形で表現したものです。
小舟の上に、一人の僧が乗っていますが、実際には、テントのような木箱に、釘を打たれ、閉じ込められていました。
境内の奥のほうに、不思議な形をした石碑のようなものが、また目に留まりました。
「なんだろう?」
こう思って、近づいてみました。
先ほどの看板にもありましたね。
下の方に、金色で描かれた絵のようなものを見てださい。
最初は、
「古代文字かな?」
と思ったのですが、だんだん、この絵の意味がわかってきました。
もうわかりましたね?
小舟に乗った、一人の僧の絵です。
袈裟を着ているようにも見えますね。
寒くて寂しい、太平洋の真ん中で、小舟の箱の中から、微かに息をしている姿かもしれません。
そうです。
これは、「補陀落渡海」の絵だったのです!
「うわ~~!!」
同行していた友人と二人で、この石碑の前で、またまた叫んでしまいました!
絶叫した後の記念撮影です。
この寺の近くには、その名もズバリ、「鉄舟寺」があります。
山号も、そのまま、「補陀落山寺」です。
「海長寺」からは、歩いてもいける距離にあります。
そこにも、立ち寄りました。
さっそく、門の前での記念撮影です。
この石碑も、明らかに、「小舟」のオブジェですね。
ネットの説明だと、こう書かれています。
幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家。剣と禅と書の達人としても知られる書、山岡鉄舟という人物も、この寺には、関わっているそうです。
「鉄舟寺」というのは、ここからきているとのことです。
しかし、私は違うと思います。
本当の名前の意味は、
「鉄の箱のような舟に、閉じ込められてきた僧が、辿り着いた場所」
だと推測します。
そして、おそらくは、一番最初に創建された時の名前は、「補陀落山寺」だったと思います。
入口の門です。
これを見て、感動しました~!
屋根の模様も、「黒潮」を表現しているデザインになっています。
しかも、「徳川家」の家紋である、「三つ葉葵」まで、入っています。
ここでも、また、「三葉ちゃん」の登場ですね。(笑)
「鬼瓦」もありました。
「鬼」=「大丹生(おおにゅう)」=「天皇家」
でしたね。
この日、寺の門は閉じていましたが、横の坂道から、すんなりと境内に入れました。
寺の奥には、神社もありました。
やはり、「熊野系」の神社でした。
神社の近くには、石像もありました。
石像よりも、その下の文字に注目してください。
「合同船」
と書かれていますね。
おそらく、「補陀落渡海」で渡ってきた小舟たちが、ここに何かの理由で、集まったことがあったのだと思います。
ちゃんと花が生けられているのが、印象的でした。
神社のは、高台になっているので、海が見えます。
ここから海を眺めると、なんともいえない気持ちが湧き上がってきました。
お寺の中には、「ソテツ(蘇鉄)」もありました。
そして、「原爆慰霊碑」がありました。
上部にある絵は、普通は、「折り鶴」だと解釈するのでしょうが、私には、別の解釈も思い浮かびました。
この鳥は、「丸」の中に描かれているのが、特徴です。
私の脳内にある膨大なデータの中で、ヒットしたのが、これです。
これは、お隣の中国の霊獣、「三足烏(サンソクウ)」という名前です。
三本の足を持ったカラスで、アフリカなどにも、これと同じ壁画が見つかっているそうです。
周囲の「丸」は、「太陽」を表現していて、「カラス」は、「黒点」だという説もあるようです。
つまり、「太陽に住む鳥」だということです。
これも、同じくお隣の韓国の霊獣、同じく「三足烏(サムジョゴ)」という名前だそうです。
また、高句麗では、昔から、「火烏」とも呼ばれているそうです。
ここまで似た絵だと、上記の中国の霊獣と同じだと考えてもいいと思います。
わかりましたか?
つまり、この三羽の霊鳥は、同じ存在だということです。
そうです。
日本では、熊野を拠点にしたグループ、「八咫烏」です。
ここでも、赤い「丸」の中に入っていますね。
詳しいことは、割愛させていただきますが、いろいろ調べると、これらの霊鳥は、他の存在、「金鵄」や「不死鳥(フェニックス)」とも同じ存在みたいです。
そして、大切なことは、日本神話において、「太陽(丸)」を象徴する神様は、一人しかいません。
「天照大神」
です。
これらを、因数分解のように、シンプルにまとめてみます。
原爆慰霊碑に描かれている、「折り鶴」の正体です。
「折り鶴」=「三足烏(サンソクウ)」=「三足烏(サムジョゴ)」=「火烏」=「八咫烏」=「金鵄」=「不死鳥(フェニックス)」=「天照大神」=「天照派」
山の頂上からの眺めも、最高でした。
この日は、風が強かったのですが、遠くに綺麗な海が見えました。
「久能山東照宮」を、ネットでも調べてみました。
すると、こういう記述がありました。
〇「久能山東照宮」について
久能山の歴史
遥か遠い昔、この山は観音菩薩の霊場とされ、観音信仰の聖地でした。
久能山の歴史、「久能寺縁起」によると、推古天皇の御代(7世紀頃)、秦氏の久能忠仁が、初めて山を開き一寺を建て、観音菩薩の像を安置し、「補陀落山久能寺」と称したことに始まります。
久能山の名称も、ここから起こりました。
なんと、ここは、元々の名前は、「補陀落山久能寺」だったというのです!
わかりましたか?
これを、わかりやすくした絵を、入手しました。
一般向けの説明文には、こう書かれています。
「家康公からの伝言」
この絵は、「司馬温公の甕割り」の絵です。
古代中国の有名な政治家、司馬温公が、7歳の時のある日、友人と遊んでいましたが、友人が誤って、水を一杯張った水瓶に落ちてしまいます。
「このままでは、友人が溺れ死んでしまう」と思った温公さんは、機転を利かし、水瓶を割ることによって、友人を助けることができたというお話です。
家康公からの伝言は、「命を大切にせよ」です。
どうですか?
これを読んで違和感を感じませんか?
「江戸時代」という凄い時代を創り上げ、日本とう国家の基礎も創り上げた、超偉大な人物の眠る聖地、さらに、そこの一番大切な拝殿の真ん中に、こんな子供でもわかるような逸話の絵なんて、描かないと思いませんか?
もうわかりましたね。
そうです。
これは、「補陀落渡海」の絵です。
おそらく、熊野から静岡の浜辺に打ち上げられた小舟から、一人の僧を、二人の仲間が救出している場面だと思えば、しっくりくると思います。
中国風の服装や髪形は、カムフラージュです。
私は、この髪形は、「二本角」、つまり、「鬼=大丹生=天皇家」を表現していると思います。
小舟の上で、鉄の箱のように釘打ちされた板を、仲間が、こじ開け、浸水していた海水と一緒に、ドバ~!という音とともに、補陀落渡海の僧が、箱から出てきている場面だと思います。
もう大感動でした。
同行した友人と一緒に、何度も、何度も、
「凄いね~! 凄いね~!」
と言い合って、この発見を喜び合いました。
「補陀落渡海」
やはり、これが、日本史における最重要な出来事だったのです。
拝殿の奥の階段を登っていくと、「神廟」があります。
辞書によると、「神廟とは、神の霊をまつった所」だと説明されています。
やはり、家康公は、神人だったのだと思います。
あっ、そうそう、そういえば説明するのを、すっかり忘れていました。
「どうして、家康は、天照派の人々を助けていたのか?」
という素朴な疑問です。
この家紋に、全ての意味が隠されています。
思い出してください、
旅行記の最初の頃に、書きましたね。
武闘派である「神武派」、それから、穏健派である「天照派」、この両者が、仲直りした記念に、最初にやった祭りが、京都の「葵祭」でしたね。
調べてみると、昔、その祭りを執り行い、両者の仲をとりもったグループがいたようです。
それが、いわゆる、「加茂族」です。
その子孫が、どうやら、「徳川家康」だったようなのです。
ネットでの説明です。
徳川氏は京都・葵祭で有名な、加茂神社の氏子だから、加茂神社の神紋、葵を、家紋として用いました。
賀茂神社の裏の神山には、葵が沢山生えており、この草を神殿の飾りや神の降臨(葵祭)に使用し、それを加茂神社の神紋としました。
神社の神紋は「二葉葵」で、それを徳川氏は、神社のシンボル、「巴」と掛けて「葵巴」としました。
その「葵巴」こそが、一般にいう「三葉葵」である、徳川家の家紋となりました。
「久能東照宮」の境内には、「双葉葵」が置かれていました。
よく見ると、葉っぱが、「♡(ハート)」の形をしていますね。
そして、これは、ダジャレで、オヤジギャグになりますが、
「家康」=「イエス」
こういう話もあります。
「家康」 → 「いえやす」 → 「いぇーやす」 → 「いえす」
「徳川家康」=「イエス・キリスト」
つまり、同じ魂グループだったということです。
おそらく、「聖徳太子」も、そうだと思います。
「イエス・キリスト」 → 「聖徳太子」 → 「徳川家康」
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